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いろはのはなしーその2-

ーその1-より続く
私は、お坊さんでも専門家でもないので、正確な訳はできませんが、大意は以下のようになると思っています。 「全ての目に見える事象は、条件によって変化を続けている。この世界にあるもので、永遠に不変なものなど何ひとつない。事象の変化に囚われて、一喜一憂する心を捨てて、真実を悟ると、迷いも無ければ苦しみも無い、心が平安になる世界に行きつくのである。その通りなのだ(=ん)。」
一説によれば、前ページで紹介した「いろは」歌は、涅槃経の「諸行無常 是正滅法 生滅滅己 寂滅為楽」を表すと、言われているそうです。また、この「いろは」歌は、平安時代に大流行したとも、言われています。
「いろは」歌の難しい話はここまでとして、どうせ素人なので、少し大胆な推定をすると、仏様(釈尊)はかなり冷静に自然観察をした結果、無常という概念を産みだしたのではないかと思っています。
雲仙に住んでいますと、自然に思いっきり囲まれておりますので、否応にも季節の移り変わりを、感じまた目にせざるを得ません。おまけにガラにも無く、雲仙地獄谷のボランティアガイドなどをしたものですから、余計に自然の移り変わりを見ることになりました。
例えば、ツツジひとつ例に取っても、春には可愛らしい花を咲かせ、一週間もすれば花が枯れてしまい、小さな白い粉状の種を風に飛ばし、また暑い夏を耐え、秋には小さな芽を育み、冬には芽と共に寒さに耐え、春になってまた花を咲かせるといった、自然の法則または条件によって、移り変わっていくのです。
この世界に存在する、全てのものは無常の世界から、けして離れることはできないのです。それは、自分の心の中を観ても同じではないでしょうか。心の中に、正しい考え方と、正しくない考え方とが、生まれては消え、消えては生まれしていませんでしょうか。
平安時代の無常観は、全てがいつかは滅んで終わるという、虚無的な考え方や生き方につながっていたと思います。しかしながら、さらに自然を観察し続けると、事象の終わりは、次の新しい事象の始まりとなっております。そして全ての事象は、条件に応じて、中立的に、生滅ではなく、変化を続けているのではないかと思われます。
人間は、ものごとを把握しやすくするために、始めや終わりを決めていますが、よく観察すれば、だだ変化の過程の一区切りではないでしょうか。
例えば、数百年生きた杉の木が、命を終え、倒れたとすれば、その杉を栄養分にして、細菌・黴・コケ類さらには小さな虫などが、活動をはじめます。その結果、杉は森の土へと還って往き、またこれを養分として、新しい植物が育っていきます。
命には繋がりがあり、終わりは始まりであり、始まりは終わりへと、絶え間なく連鎖を続けております。雲仙の美しい自然も、一瞬たりとも同じではなく、変化をし続けております。
自然界では、人為的にそのあり方がゆがめられない限り、必要でないものは無く、条件の変化に応じて、全てが調和して平等に、存在しています。
ちょっと自分を取り戻したいと感じたとき、雲仙に遊びにいらっしゃいませんか?箱庭的な雲仙の自然の中で、都会では見ることの出来ない、自然の営みが、何事かをあなたに語りかけてくれるのではないでしょうか。