湯元ホテルのお知らせ

宮崎康平先生ーその3-

雲仙は本日雨模様です。自分のイメージの中にある春の雨、少し暖かな、雨音のしない、何となく艶めかしさのある、子供の頃の訳もなく浮き浮きとしていたころの、そんな雨が今降っています。

(その2より続く)
しかし、ある日突然、そんな父が、失明された宮崎先生を連れて、帰って来たそうです。
母が驚いて父に、どうするつもりかと尋ねますと、「地獄谷ば介添えもなく、一人でフラフラしよらしたとたい(していらしたのだ)。宮崎さんが元気かときは、 世話になったり、恩ば受けたりしとった人間は、一杯おったとに(沢山いたのに)、 失明さしたら(されたら)誰も面倒ばみらんとたい(面倒をみようとしない)」と父は心から憤慨していたそうです。そして、他の人間がどうあろうとも、「オイ(私)が家で世話ばするとたい(湯元で世話をするのだ)。」と語ったそうです。
私は後で知ったことですが、宮崎先生が失明されたとき【昭和天皇が島原半島をご訪問される準備をするため、毎日徹夜が続き、それが原因であったと聞いている。】、多額の借金を持っておられ、乳飲み子を置いたまま、 奥様に逃げられ、最悪の状態だったそうです。
ある日、父は母に「宮崎さんはかわいそか(可哀相だ)」と話し出しました。
その日は、借金取りが宮崎先生に、返済の催促にきておりまして、 さすがの宮崎先生も、布団に頭を突っ込み、「きこえん(聞こえない)。きこえん(聞こえない)」と、 言われていたそうです。その頃の話をする時、母は必ず涙ぐみます。 あの元気で明るい宮崎先生に、そんな時期があったなんて、私には不思議な気がいたします。
しかし宮崎先生は、最悪の事態にもめげない、不屈の男でした。 湯元に滞在中は父と共に、二度目の奥様と巡り合われてからは奥様と、 島原半島の歴史と島原弁を調べ上げ、とうとう大ヒット作、島原の子守唄を作られたのです。
また、姉の話によりますと、まぼろしの邪馬台国は、湯元で書き上げられ、 第一回吉川英治賞を受賞されました。
(おわり)
本文に無かった部分は【 】で書き加えております。

もう亡くなってしまいましたが、私を可愛がってくださった叔父の話では、ある日借金取りが来たときに(その借金取り宮崎康平先生の顔を知らなかったそうです。)、宮崎康平先生がたまたま玄関におられ、「今日はどっかに(どこかに)出かけちょらす(出かけていらっしゃる)。」と言われて、借金取りを帰らせたそうです。これをみていた叔父は、「おかしゅうして(可笑しくて)はらのちぎるっごたった(お腹が張り裂けそうになった)」と語っておりました。先生はやっぱり面白か~!!!

 

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