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「2018年06月」の記事一覧

島原半島ジオパーク -その8- 最終章

吉田兼好(1283年?~1352年?)は、日本三大随筆の一つで、「徒然草」という随筆を残しています。

「徒然草」序文には「つれづれなるまゝに、日ぐらし硯に向かひて、心にうつりゆくよしなしごとをそこはかとなく書き付くれば、あやしうこそ物狂ほしけれ。」と書いています。

現代語に訳すと、「暇にまかせて、朝から晩まで硯(すずり)に向かって、心の中に思い浮かぶとりとめもないことを、あてもなく書きつけていると、熱中し過ぎて狂ったような気持ちになるものだ。」といった意味になるそうです。

現代では、スマホやテレビ等で時間潰しが出来るので、暇にまかせて一日中机に向かって文章を書くなど、プロの作家でもなければやりはしません。特に集中力の無い私には、とてもとても真似できるものではありません!絶対無理です!無理な仕事をしたので、休暇の話を女将にしなくては、ルン!ルルン!

「あの、私は、本日大変長い時間机の前に噛り付いてお仕事頑張りました。つきましては、懸案事項になっておりました休暇を頂きたいのですが、如何でしょうか?エッ!今日、女将が外出中に、私が長~い昼寝をしていたとの情報が入っていると!いやいや、それは誤解でごじゃりまする。アッ!そう言えば用事を思い出しましたので、ちょっと失礼いたします。休暇?そんなもの私には必要ありません。私、仕事大好きですから~。」という訳で、はじまり!はじまり!

(その7より)

1637年~1638年 島原の乱

島原の乱(しまばらのらん)は、日本の歴史上最大規模の一揆と言われています。また、幕末以前に起こった最後の本格的な内戦であるとも言われています。

この乱は1637年12月11日に勃発し、1638年4月12日に終結とされており、約4ヶ月の戦いであったと記録されています。

島原の乱のきっかけは、農民の生活が成り立たないほどの税の過酷な取り立てと、税を納めることが出来なかった人々への、過激な刑罰や拷問でした。また、乱が勃発した後に、一揆を起こした農民たちの結束力の源がキリスト教であったことが、大変特徴的であったと思います。

そして、島原の乱が鎮圧された1年半後にポルトガル人が日本から追放され、鎖国が始まり、戦国時代から島原の乱が終わるまで、領主の持ち物としてあつかわれていた領民が、人として扱われることとなり、民政が重視されるきっかけとなりました。

島原の乱の規模は諸説ありますが、幕府側の参加者は約125,800人、一揆側の参加者は約37,000人とされています。また、死傷者の数は幕府側が8,000人以上にのぼり、一揆側は全滅したと言われています。

(ジオパークの観点から 島原の乱と千々石断層と深江断層との関係)

地元の人達は島原半島を北と南を大きく分けて、北目(きため)・南目(みなんめ)と呼びます。詳しく調べると、島原の乱で一揆軍に参加した人々が住んでいた場所を南目(みなんめ)、それ以外の地域を北目(きため)といいます。そして、北目(きため)・南目(みなんめ)の境界を調べると、意外な事実が浮かび上がってきます。それが、千々石断層と深江断層です。

一揆軍の最初の目標は、島原半島全部の制圧と長崎までの制圧でした。しかし、一揆軍は千々石断層で、一揆軍への参加を拒んだ、愛野地区の領民に追い返され原城に撤退します。逆に、島原藩は深江地区で、一揆軍に負け、島原城に逃げ帰っています。深江地区での戦闘を詳しく調べていませんが、恐らく一揆軍は、深江断層を利用したものと考えています。

(ジオパークの観点から 原城址と地質)

島原半島の南目に住んでいた農民は、多くが一揆軍に加えられ、島原の乱で全滅しています。このため島原半島の南目は無人状態となり、これを解消するために、日本各地から移住が行われています。余談ですが、有家町には小豆島からソーメン作りの技術を持った人達が移住して来ています。そして、一時期は島原で作られたソーメンが、三輪ソーメンのブランド名で、日本中で多量に販売されていました。そして、千々石断層も深江断層も地勢が関係した、歴史的展開があった場所だといえます。

そして、島原の乱の折には、海に面してそそり立つ、断崖絶壁となった原城址を、一揆軍は堅固な要塞として利用し、イエズス会かポルトガルの救出を待ちながら籠城戦を展開したと思われます。また、原城址から発掘されたロザリオの重さが、当時の戦で利用された銃弾の重さと一致するとのことです。このことから、当時、原城址に打ち込まれ、石垣に張り付いていた軟鉄製の銃弾を剥がしてロザリオに加工し、祈りの道具として使われていたことが分かります。何ともやるせない気持ちになります。またここも、地勢が関係した、歴史的展開があった場所だといえます。

原城址の発掘調査で分かったことは、沢山の人骨が見つかり、その多くが脹脛付近の骨に傷があったということです。つまり、一揆軍参加者が逃げ惑う中、後ろから脹脛切って動けないようにしてから斬殺されたことになります。一揆軍の立て篭もった原城址のある、南有馬の地層は、島原半島を構成する地層の中では、比較的に古い地層群に属しているそうです。原城跡ではこの古い地層に、阿蘇山の噴火によって火砕流が発生し、海面を渡って降り積り、現在の小高い形に成ったそうです。

(島原の乱のその後 新しい世紀に向けて)

これは、マスコミに一切取り上げることの無かった話ですし、ジオパークとは必ずしも関係ありませんが、私の取材記録を、個人的な使命感で書き残しておきます。

以下の内容は、私が西暦2006年12月24日13:00~約2時間半、古巣神父様に直接インタビューをした内容を、要約したものであります。島原半島観光への新たな道を開く重要な内容であるため、私の力量では不十分とは思いましたが、あえてご報告申し上げます。また、以下の文章には、客観性を持たせるため、敬称は略させていただきましたことを、ご了承下さい。

西暦2000年7月22日(土)15:00~17:00にかけて、長崎県南島原市南有馬町にある史跡の原城本丸跡において、島原の乱の殉難者追悼記念ミサが、カトリック長崎大司教区島原教会の主宰で執り行われた。当時の実行代表責任者は、古巣神父であった。

島原の乱の殉難者追悼記念ミサが、行われることになったのは、新世紀の区切りとして、原城本丸跡で狂言と薪能を催行することが決り、出演者(野村萬歳等)から祟り(タタリ)が無いように、お祓いをして欲しいとの依頼が、古巣神父にあったことが発端となった。

キリスト教の教義では、全てを許し愛することから始まるため、祟りなどあるはずもない考えた古巣神父は、当初出演者からの申し出を断るつもりであった。

しかし、ローマ教皇パウロ2世が、キリスト教の大聖年でもあった西暦2000年に、キリスト教の歴史におけるユダヤ人への対応、十字軍のイスラム教徒への行為に対する反省や、ガリレオ・ガリレイの裁判における名誉回復などを公式に表明していたことが古巣神父の心に残っていたため、原城跡でのミサを、江戸時代における過激なキリスト教信者による、神社仏閣の破壊行為や殺人などの罪を認め謝罪するとともに、原城の戦いで亡くなった全ての人々の鎮魂と、仏教や神道の信仰を持つ人々との和解と、宗教者のあるべき姿を示し、未来へ向けての平和の祈りを込めたものとしたいとの提案をした。

古巣神父は、依頼者の了承を得たのち、半島にある神社仏閣を回り、神官方や僧侶方にミサの趣旨を説明し、ミサに参加してもらうようお願いすることにした。しかし、古巣神父は自分が提案をしたものの、他の宗教の指導者に参加してもらうのは、不可能ではないかとの思いがあった。

古巣神父の懇願に、島原半島の神主や僧侶方の中には、相容れぬことと叱責・非難をする人もあったが、宗派を超えて許しあい認め合うことの意義を深く理解する人もあり、積極的に協力をされた方もあった。また、半島だけでなく大村からも参加された僧侶の方もあった。

そしてついに2000年7月22日(土)殉教者の追悼ではなく、全ての島原の乱による殉難者追悼ミサが執り行われた。

古巣神父は語る。人間には自分が属しているグループ以外のものを、本能的に敵視し排除しようという心の働きがある。江戸時代には、キリスト教の信者の中に、他宗教を敵視し排除しようとする人達が、宗教の名の下に、非人間的な行動をとっている。心ある修道士は、このことを非公式の書簡の中でローマやインドの本部に書き送っている。ローマ教皇パウロ2世は、このような過ちを正式に謝罪した。また、未来に向けて宗教は対立するのではなく、人々の平和と幸せのために、世界になせることをすることが必要であると訴えた。

そしてミサの中で、参加した僧侶の一人と古巣神父とで、和解と誓いの言葉として以下の言葉が唱えられた。この言葉には、全ての宗教者を意識して、神という言葉は使用されていない。

私を平和のために働く者としてください

憎しみのあるところに愛を

分裂のあるところに道を

絶望のあるところに希望を

疑いのあるところに信仰を

悲しみのあるところによろこびを

もたらすものとしてください

理解されるよりは理解することを

なぐさめられるよりはなぐさめることを

愛されるよりは愛することを

求めますように

私たちは許すから許され

与えるから受け

全てをささげて

永遠の幸せをいただくことができるのです

殉難者追悼ミサの中で古瀬神父は、心の垣根を取り除くことで、いじめや戦争や争いが無くなると話をした。つまり、お互いが相手を理解する事が、多くの問題を解決していくことであり、不幸な出来事はそれを土台にして、改めることにより全ての人々の幸せにつながるのであると言い添えた。

最後に、私は過ちを認めたキリスト教の指導者と、それを許そうと集まってきた仏教や神道の指導者の人々の勇気と、人間としての偉大な善意に、敬意を払いますとともに、島原半島の今後の使命と観光とが結びつき、大きな平和の波となりますことを願いつつ、報告をおわります。[

(終わり)

島原半島ジオパーク -その7-

昔黒沢監督の「生きる」という映画の中で、主人公が口ずさむ「いのち短し 恋せよ乙女 あかき唇 あせぬ間に」という歌は曲名を「ゴンドラの唄」といって、吉井勇という方の作詞です。

吉井勇先生は、当館が湯元旅館であった時代に2度お泊まりになっており、最初にお泊まりになった際に「雲仙の湯守の宿に一夜寝て歌なと思ふ旅疲れかも」という短歌を残していらっしゃいます。これを記念して、昭和30年に作られた歌碑が雲仙湯元ホテルの駐車場前に設置されています。

この「ゴンドラの唄」の歌詞をじっくり読みますと、時の移り変わりの早さや諸行無常を感じてしまいます。特に60歳を過ぎますと、残り少ない人生を有意義に過ごさなければとつくづく思う今日この頃でございます。“いのち短し楽しめ爺(ジジィ)老いの衰え来ぬ前に”でございます。

さてそれでは、残り少ない時間を有意義に過ごすためには何をすれば宜しいのでございましょうか?何んですと!美しい音楽を聴きながら、美しい自然の風景を眺め、自分の目に焼き付けてみてはと?有りでございます!・・では具体的なプランを考えてっと・・・そうだ!ドライブが良い!早速ドライブに出かけよう!ドライブいいな~最高!

早速休暇願を書こ~っと!フン♪フン♪フン♪この手の書類を書くのは我ながらホレボレするほど筆が進む~!ルン♪ルン♪

「エッ?女将がお呼びです?」「ちょうど今、役所に提出する書類を作っているので手が離せませんと伝えて!」「エッ?それが終わってから掃除を手伝って欲しい?書類作成後にブログを書くので他の人に頼んで下さいと伝えて、お願い!」

ということで、状況適応力が極めて高く真面目な私は、休暇を諦めて続きを書くことにしました。めでたし!めでたし!

(その6より)

地勢という言葉を辞書で調べてみると、「地表面の垂直方向、水平方向の広がりの様相の事」と書いてあります。昔の人々は生きるために(農業や通常生活または軍事的な目的等に利用するために)地勢について、現代の私達に比べると、より真剣に調べたのではないかと思っています。

その証拠と言っては何ですが、特徴的な地勢を持つ場所で、大きな歴史的展開が起こっています。以下年代別に書き込んでみたいと思います。

1584年3月 沖田畷の戦い(おきたなわてのたたかい)

この戦いは、戦国大名の龍造寺隆信 対 有馬晴信・島津家久連合軍の合戦です。諸説ありますが、龍造寺側が約25,000人に対し有馬・島津連合軍が約6,000人という戦いで、両陣営には圧倒的な武力差があったことです。

また、戦いが起こったのは沖田畷という場所です(現在の島原市北門町付近)。ちなみに、畷とはあぜ道や田圃道を表す単語です。つまり、この戦いが起こった場所は、細いあぜ道が有るばかりの湿地帯であったということを意味しています。

1584年3月19日、有馬晴信の背信を知った隆信は龍王崎から出陣し、3月20日には島原半島北部の神代に上陸しました。

龍造寺隆信の家臣鍋島信生は、圧倒的な兵力に奢り一気に攻め潰そうとする隆信に対し、島津軍を警戒するように諌め、長期持久戦に持ち込む事を提案し、島津軍が肥後に撤退するのを待ってから有馬を攻め潰すように進言しました。しかし、龍造寺隆信は兵力に奢り、進言を受け入れることはしませんでした。

これに対し、有馬・島津連合軍は兵力的に圧倒的に不利であったにも拘らず、積極的な防衛策による龍造寺軍壊滅を目指し、沖田畷を防衛の要として龍造寺軍を待ち受けることにしました。このため、島津・有馬連合軍は森岳城に僅かな騎馬兵を本陣に置き、徹底的に沖田畷周辺の防備を固め、多くの伏兵を置き戦いに備えました。

竜造寺隆信は、有馬・島津連合軍の僅かな主力が森岳城に籠っていることを、森岳城を見下ろす山の上から遠望して自軍の勝利を確信し、3月24日未明、自軍を沖田畷に進軍させ、沖田畷を突破し森岳城を攻撃することにしました。

3月24日の辰の刻(午前8時頃)に戦闘が始まりましたが、有馬・島津連合軍は龍造寺軍をおびき寄せる計略を立てていたため応戦をせず、敗北を偽装して退却をしました。そして、有馬・島津連合軍は泥田・沼地の畷道に龍造寺軍を誘い込み、猛烈な銃撃により龍造寺軍の進撃を阻止し、龍造寺軍を深田に追い込み射殺していきました。

そして有馬・島津連合軍は龍造寺軍の混乱に乗じて、龍造寺軍本陣に猛攻撃をかけ、龍造寺隆信の首を取り、圧倒的に不利であった有馬・島津連合軍の勝利となりました。

以上のような戦いが沖田畷で行われたのですが、この沖田畷は千々石断層の東側の延長線上に有ります。ここは堆積物により隠れた断層があり、そこに水が集まり湿地帯が形成されたと考えられております。

沖田畷は地勢を利用した歴史的展開があった場所のひとつと言えると考えております。

(その8へ)

島原半島ジオパーク -その6-

年を取ると、人の名前が覚えられない、記憶が曖昧になるといった傾向が出てきます。従って、どの哲学者が定義したのか定かではないのですが、私が若い頃感銘を受けた言葉に「掃除とは永遠との戦いである。」というのがあります。

若いころ、毎日神経質なほどに下宿の部屋の掃除をしていた私は、その定義を読んで、永遠と戦うのは愚かであると考え、期間を6ヶ月と決め掃除を止めてみました。

結果明白!一人暮らしにも拘らず、ビニール袋に入れたゴミ(因みに、下宿に台所は付いていなかったので生ゴミは有りませんでした。)が山のようになり、もう少しでゴミに住まいを奪われてしまうところでした。危ない、危ない!

この実験の結果、19歳の私が学んだ事は、何事も程々にすることが大切であるということでありました。めでたし、めでたし。

老婆心ながら書き加えておきます。

今日はジオパークについて何も書かないのかと思われている方もいらっしゃると思いますが、お察しの通りでございます。このところとても真面目にブログを書いてきたので、先程の貴重な教訓(程々イズベスト)を活かして、今から散歩に出掛けることにしました。

あれ?机の上の電話が鳴っている。電話を取ろっかな~♪取らずにおこっかな~♪今日は気分が良いから取ってみよ~っと♪

(ゲッ!女将!)「はい?忙しいので手伝えと?お手伝いしたいのは山々ですが、今ブログを書いているまっ最中でして・・・・。はい、はい、お手伝いできないのが本当に残念です。それでは、ブログ継続して書かせて頂きます。」(な~んちゃって。)

以上の状況が発生し、大変突然ですがブログを書くことになりました。(それにしても、私が息抜きをしたいと思うと、何処からともなく女将のリアクション有り。ひょっとすると女将は超能力者?!・・・怖い・・・・。)

(その5より)

島原半島の中央部でよく見られる岩はデイサイトと呼ばれています。このデイサイトは、地下の深い場所でマグマがゆっくり固まって出来た岩(深成岩・火成岩)で、ガラスの成分ともなっているケイ酸を多く含んでおり(ケイ酸塩鉱物)、白い粒々が岩に含まれています。

デイサイトが地下の深い場所で形成された岩ですが、この岩を生み出す島原半島で起こる噴火の形態も大変特徴的で、地中深い場所でゆっくり固まった溶岩が噴出して溶岩ドームを作り、これが壊れて火砕流になります。また、島原半島の火山活動によって形成された山は、大変急峻な山になります。

一方、ハワイのキラウエア火山は、ニュースでも度々取り上げられる火山ですが、溶岩はトロトロと流れています。また、この溶岩は冷えて固まると、硬く黒っぽい玄武岩になります。また、この火山活動で形成される山は、平べったい山になります。

では、デイサイトと玄武岩の違いは何でしょうか?ケイ素(正確には二酸化ケイ素SiO2)の含有率の違いだと言われています。デイサイトは63~70%、玄武岩は45~52%を含んでいると言われています。

因みに、二酸化ケイ素の含有量が多い順に溶岩を並べると流紋岩→デイサイト→安山岩→玄武岩となります。

さて、地球はプレートという十数個の大きな岩盤に覆われています。このプレートは、マグマが供給され続けることで他のプレートから離れ続ける場所、また海中で冷やされプレートの密度が増し他のプレートの下に沈み込み続けている場所、さらに他のプレートとは関係なしにそのプレートの一部分からマグマが流出続ける場所の三つに分類出来るとされています。それぞれ、海嶺・沈み込み帯・ホットスポットと名付けられています。

島原半島は、薩摩諸島・奄美大島・沖縄・台湾といったプレートの直ぐ傍にある火山ではなく、プレートの端から離れた地震の少ない場所で火山活動が起きており、日本では大変珍しいハワイのキラウエア火山と同じ、ホットスポットと考えておられる学者もいらっしゃいます。

さて、文科系の私にはこれ以上の説明は無理なので話を変えますが。溶岩の性質で急峻な山が形作られる島原半島は、短時間で植生が変わっていく様子が見られます。

例えば、島原半島の口ノ津町早崎港近くでは、熱帯雨林で見られるアコウの群落や小浜の海岸付近ではジャカランタが見られますが、そこから約1時間の島原半島の妙見岳山頂付近では、モミなどを見ることが出来ます。

(その7へ)