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島原半島ジオパーク -その8- 最終章

吉田兼好(1283年?~1352年?)は、日本三大随筆の一つで、「徒然草」という随筆を残しています。

「徒然草」序文には「つれづれなるまゝに、日ぐらし硯に向かひて、心にうつりゆくよしなしごとをそこはかとなく書き付くれば、あやしうこそ物狂ほしけれ。」と書いています。

現代語に訳すと、「暇にまかせて、朝から晩まで硯(すずり)に向かって、心の中に思い浮かぶとりとめもないことを、あてもなく書きつけていると、熱中し過ぎて狂ったような気持ちになるものだ。」といった意味になるそうです。

現代では、スマホやテレビ等で時間潰しが出来るので、暇にまかせて一日中机に向かって文章を書くなど、プロの作家でもなければやりはしません。特に集中力の無い私には、とてもとても真似できるものではありません!絶対無理です!無理な仕事をしたので、休暇の話を女将にしなくては、ルン!ルルン!

「あの、私は、本日大変長い時間机の前に噛り付いてお仕事頑張りました。つきましては、懸案事項になっておりました休暇を頂きたいのですが、如何でしょうか?エッ!今日、女将が外出中に、私が長~い昼寝をしていたとの情報が入っていると!いやいや、それは誤解でごじゃりまする。アッ!そう言えば用事を思い出しましたので、ちょっと失礼いたします。休暇?そんなもの私には必要ありません。私、仕事大好きですから~。」という訳で、はじまり!はじまり!

(その7より)

1637年~1638年 島原の乱

島原の乱(しまばらのらん)は、日本の歴史上最大規模の一揆と言われています。また、幕末以前に起こった最後の本格的な内戦であるとも言われています。

この乱は1637年12月11日に勃発し、1638年4月12日に終結とされており、約4ヶ月の戦いであったと記録されています。

島原の乱のきっかけは、農民の生活が成り立たないほどの税の過酷な取り立てと、税を納めることが出来なかった人々への、過激な刑罰や拷問でした。また、乱が勃発した後に、一揆を起こした農民たちの結束力の源がキリスト教であったことが、大変特徴的であったと思います。

そして、島原の乱が鎮圧された1年半後にポルトガル人が日本から追放され、鎖国が始まり、戦国時代から島原の乱が終わるまで、領主の持ち物としてあつかわれていた領民が、人として扱われることとなり、民政が重視されるきっかけとなりました。

島原の乱の規模は諸説ありますが、幕府側の参加者は約125,800人、一揆側の参加者は約37,000人とされています。また、死傷者の数は幕府側が8,000人以上にのぼり、一揆側は全滅したと言われています。

(ジオパークの観点から 島原の乱と千々石断層と深江断層との関係)

地元の人達は島原半島を北と南を大きく分けて、北目(きため)・南目(みなんめ)と呼びます。詳しく調べると、島原の乱で一揆軍に参加した人々が住んでいた場所を南目(みなんめ)、それ以外の地域を北目(きため)といいます。そして、北目(きため)・南目(みなんめ)の境界を調べると、意外な事実が浮かび上がってきます。それが、千々石断層と深江断層です。

一揆軍の最初の目標は、島原半島全部の制圧と長崎までの制圧でした。しかし、一揆軍は千々石断層で、一揆軍への参加を拒んだ、愛野地区の領民に追い返され原城に撤退します。逆に、島原藩は深江地区で、一揆軍に負け、島原城に逃げ帰っています。深江地区での戦闘を詳しく調べていませんが、恐らく一揆軍は、深江断層を利用したものと考えています。

(ジオパークの観点から 原城址と地質)

島原半島の南目に住んでいた農民は、多くが一揆軍に加えられ、島原の乱で全滅しています。このため島原半島の南目は無人状態となり、これを解消するために、日本各地から移住が行われています。余談ですが、有家町には小豆島からソーメン作りの技術を持った人達が移住して来ています。そして、一時期は島原で作られたソーメンが、三輪ソーメンのブランド名で、日本中で多量に販売されていました。そして、千々石断層も深江断層も地勢が関係した、歴史的展開があった場所だといえます。

そして、島原の乱の折には、海に面してそそり立つ、断崖絶壁となった原城址を、一揆軍は堅固な要塞として利用し、イエズス会かポルトガルの救出を待ちながら籠城戦を展開したと思われます。また、原城址から発掘されたロザリオの重さが、当時の戦で利用された銃弾の重さと一致するとのことです。このことから、当時、原城址に打ち込まれ、石垣に張り付いていた軟鉄製の銃弾を剥がしてロザリオに加工し、祈りの道具として使われていたことが分かります。何ともやるせない気持ちになります。またここも、地勢が関係した、歴史的展開があった場所だといえます。

原城址の発掘調査で分かったことは、沢山の人骨が見つかり、その多くが脹脛付近の骨に傷があったということです。つまり、一揆軍参加者が逃げ惑う中、後ろから脹脛切って動けないようにしてから斬殺されたことになります。一揆軍の立て篭もった原城址のある、南有馬の地層は、島原半島を構成する地層の中では、比較的に古い地層群に属しているそうです。原城跡ではこの古い地層に、阿蘇山の噴火によって火砕流が発生し、海面を渡って降り積り、現在の小高い形に成ったそうです。

(島原の乱のその後 新しい世紀に向けて)

これは、マスコミに一切取り上げることの無かった話ですし、ジオパークとは必ずしも関係ありませんが、私の取材記録を、個人的な使命感で書き残しておきます。

以下の内容は、私が西暦2006年12月24日13:00~約2時間半、古巣神父様に直接インタビューをした内容を、要約したものであります。島原半島観光への新たな道を開く重要な内容であるため、私の力量では不十分とは思いましたが、あえてご報告申し上げます。また、以下の文章には、客観性を持たせるため、敬称は略させていただきましたことを、ご了承下さい。

西暦2000年7月22日(土)15:00~17:00にかけて、長崎県南島原市南有馬町にある史跡の原城本丸跡において、島原の乱の殉難者追悼記念ミサが、カトリック長崎大司教区島原教会の主宰で執り行われた。当時の実行代表責任者は、古巣神父であった。

島原の乱の殉難者追悼記念ミサが、行われることになったのは、新世紀の区切りとして、原城本丸跡で狂言と薪能を催行することが決り、出演者(野村萬歳等)から祟り(タタリ)が無いように、お祓いをして欲しいとの依頼が、古巣神父にあったことが発端となった。

キリスト教の教義では、全てを許し愛することから始まるため、祟りなどあるはずもない考えた古巣神父は、当初出演者からの申し出を断るつもりであった。

しかし、ローマ教皇パウロ2世が、キリスト教の大聖年でもあった西暦2000年に、キリスト教の歴史におけるユダヤ人への対応、十字軍のイスラム教徒への行為に対する反省や、ガリレオ・ガリレイの裁判における名誉回復などを公式に表明していたことが古巣神父の心に残っていたため、原城跡でのミサを、江戸時代における過激なキリスト教信者による、神社仏閣の破壊行為や殺人などの罪を認め謝罪するとともに、原城の戦いで亡くなった全ての人々の鎮魂と、仏教や神道の信仰を持つ人々との和解と、宗教者のあるべき姿を示し、未来へ向けての平和の祈りを込めたものとしたいとの提案をした。

古巣神父は、依頼者の了承を得たのち、半島にある神社仏閣を回り、神官方や僧侶方にミサの趣旨を説明し、ミサに参加してもらうようお願いすることにした。しかし、古巣神父は自分が提案をしたものの、他の宗教の指導者に参加してもらうのは、不可能ではないかとの思いがあった。

古巣神父の懇願に、島原半島の神主や僧侶方の中には、相容れぬことと叱責・非難をする人もあったが、宗派を超えて許しあい認め合うことの意義を深く理解する人もあり、積極的に協力をされた方もあった。また、半島だけでなく大村からも参加された僧侶の方もあった。

そしてついに2000年7月22日(土)殉教者の追悼ではなく、全ての島原の乱による殉難者追悼ミサが執り行われた。

古巣神父は語る。人間には自分が属しているグループ以外のものを、本能的に敵視し排除しようという心の働きがある。江戸時代には、キリスト教の信者の中に、他宗教を敵視し排除しようとする人達が、宗教の名の下に、非人間的な行動をとっている。心ある修道士は、このことを非公式の書簡の中でローマやインドの本部に書き送っている。ローマ教皇パウロ2世は、このような過ちを正式に謝罪した。また、未来に向けて宗教は対立するのではなく、人々の平和と幸せのために、世界になせることをすることが必要であると訴えた。

そしてミサの中で、参加した僧侶の一人と古巣神父とで、和解と誓いの言葉として以下の言葉が唱えられた。この言葉には、全ての宗教者を意識して、神という言葉は使用されていない。

私を平和のために働く者としてください

憎しみのあるところに愛を

分裂のあるところに道を

絶望のあるところに希望を

疑いのあるところに信仰を

悲しみのあるところによろこびを

もたらすものとしてください

理解されるよりは理解することを

なぐさめられるよりはなぐさめることを

愛されるよりは愛することを

求めますように

私たちは許すから許され

与えるから受け

全てをささげて

永遠の幸せをいただくことができるのです

殉難者追悼ミサの中で古瀬神父は、心の垣根を取り除くことで、いじめや戦争や争いが無くなると話をした。つまり、お互いが相手を理解する事が、多くの問題を解決していくことであり、不幸な出来事はそれを土台にして、改めることにより全ての人々の幸せにつながるのであると言い添えた。

最後に、私は過ちを認めたキリスト教の指導者と、それを許そうと集まってきた仏教や神道の指導者の人々の勇気と、人間としての偉大な善意に、敬意を払いますとともに、島原半島の今後の使命と観光とが結びつき、大きな平和の波となりますことを願いつつ、報告をおわります。[

(終わり)