湯元ホテルのお知らせ

「よもやまばなし」の記事一覧

ユモリの御挨拶

今日(平成30年3月31日)初めてブログに投稿します。投稿しながらも高齢者であるため、本当にこれでうまくホームページ上に表示されるのか大変不思議です。
投稿のやり方も、今朝数枚のマニュアルを渡されて、女将が満面の笑顔で「今日から投稿お願いします。」と言われて、文章を書き始めたものの、頭の中は「??????」状態です。
この「よもやまばなし」を投稿することになったきっかけは、元々リニューアル前のホームページで、「よもやまばなし」を掲載していたからです。
以前のホームページでは、投稿する度にネット管理の専門家に原稿をを送り、その都度料金を支払わなければならなかったため、オチャラけた内容はお金の無駄遣いになるので、投稿できないと言い張り、追加投稿を上手くさぼってきました。
しかし、世の中が進歩し(自分が勝手に世の中に遅れていただけ)、女将がネットの勉強をして、無料で投稿出来る方法(ブログ)を発見してしまったため、ユモリの平穏無事な生活も、今日で自動終了ということになりました。
今後の予定としましては、以前の投稿文書を改めてインプットし直して、その後新しい投稿に繋げて行きます。
これからは、心を入れ替えて、投稿を続けて参りますので、宜しくお願い致します。
『心の声』・・・定期的に投稿するのは無理です!オチャラけた内容が多くなります!

奮闘中です!

<昨日のご報告>
意気揚々と女将に「ブログをアップしました。見て下さい!」と報告したところ、女将はまた満面の笑顔で「湯元ホテルのお知らせには入ってますが、”よもやまばなし”のカテゴリーに入ってませんでしたよ。」とのことご回答でした(ここは満面の笑顔では無く、お気の毒さまの微笑みが欲しかった・・・・)。
”な、何なんだそのカテゴリー”と思い、先に渡された数枚のマニュアルを、良く良く読んでみれば、老眼の人は読み落としてしまいそうな小さな字で、必要ならばカテゴリーを入力してくださいと書いてあるではありませんか。
この”よもやまばなし”にとっては、カテゴリーの入力は絶対必要だったのに~~~!と一人で落ち込んでしまいましたが、心を切り替え大きく息を吸い、面倒くさいと思いながら、しぶしぶやり直しをして、やっと投稿が落ち着くべきところに落ち着きました!
では、何故ここまでカテゴリーにこだわるのか、不思議に思われるかもしれませんが、実はこれもユモリがこだわったせいなんです(どうせ私が悪いんです)。
普通ブログというものは、新しい投稿から表示されるそうですが、文章を小分けして投稿する場合には、古い順に並ばなければ意味が分からなくなると考え、特別に専門家にお願いをして、通常のブログとは反対の配置で、古い投稿順に並ぶ仕組みにしてもらいました。これでカテゴリー分けが必要な理由がお分かり頂けましたでしょうか。
え?何で文章を小分けにして投稿するのかとのご質問ですか。え?古い投稿文章を小分けで投稿することで、時間稼ぎをしているのではないかとのご質問ですか?
ご質問にお応えしたいのですが、お客様のご到着時間が迫って参りましたので今日はこれまでとさせて頂きます。また、前のホームページで掲載していた、”よもやまばなし”は次回から投稿します。現在、ユモリのコンピューターの何所かに保存されている筈の文章を捜索中で、明日までには必ず見つけて掲載します。掲載出来ると思います。掲載出来れば良いのですが・・・・・。(以上 続く)

いろはのはなしーその1-

昨日必死になって、以前のホームページに投稿していた文章を見つけ出すことができました。こんなに苦労するのであれば、もっとデーターをきちんと整理しておけば良かったと反省しきりです。でも、見つけ出せたのであるから、今回は良しとしよう。(ウンウンと自分だけ納得して頷く。)
さて、今日から暫くの間、以前のホームページに投稿していた文章を細切れにして、掲載していきます。(細切れにすればするほど楽出来る!)
十年以上前に書いた文章なので、ちょっと硬すぎるのですが、我慢してお付き合いください。
(以下本文)
”現代に活きる若い日本人は、小学校の国語の書き取りは、「あいうえお」から習っています。しかし、明治生まれの祖母に可愛がられたせいか、私は「いろは」を小学校の頃から、憶えさせられていました。
そして、後年「いろは」の意味の深さを知った時、大変な驚きを覚えました。何故なら、「いろは」は、仏教の基本的な考え方、または昔の日本人の無常観を、歌い込んだものであることが分かったからです。
私が、最初にこの歌を取り上げたのは、雲仙はその昔、真言密教修行の山であり、この歌の意味を知ることで、皆様の散策の面白さも倍増すると思ったからです。(皆様と書いたものの、これを読んでくださる、奇特なひとはいるのでしょうか?)
さて、ちょっと堅い話になりますが、後で楽しみが増えるということで、我慢してお付き合い下さい。
実は、(いろはのはなし)の1ページ目を作るために、4日もかかってしまいました。自分が生きているうちに、完成することが出来るかとても不安になってきました・・・・・・。
泣き言はともかく、本題に戻ると、「いろは」の全文は、「いろはにほへと ちりぬるを わかよたれそ つねならむ うゐのおくやま けふこえて あさきゆめみし ゑひもせす ん」です。
漢字を当てはめると「色は匂へど 散りぬるを 我が世誰そ 常ならむ 有為の奥山 今日越えて 浅き夢見じ 酔ひもせず ん」となります。(次回に続く)

いろはのはなしーその2-

ーその1-より続く
私は、お坊さんでも専門家でもないので、正確な訳はできませんが、大意は以下のようになると思っています。 「全ての目に見える事象は、条件によって変化を続けている。この世界にあるもので、永遠に不変なものなど何ひとつない。事象の変化に囚われて、一喜一憂する心を捨てて、真実を悟ると、迷いも無ければ苦しみも無い、心が平安になる世界に行きつくのである。その通りなのだ(=ん)。」
一説によれば、前ページで紹介した「いろは」歌は、涅槃経の「諸行無常 是正滅法 生滅滅己 寂滅為楽」を表すと、言われているそうです。また、この「いろは」歌は、平安時代に大流行したとも、言われています。
「いろは」歌の難しい話はここまでとして、どうせ素人なので、少し大胆な推定をすると、仏様(釈尊)はかなり冷静に自然観察をした結果、無常という概念を産みだしたのではないかと思っています。
雲仙に住んでいますと、自然に思いっきり囲まれておりますので、否応にも季節の移り変わりを、感じまた目にせざるを得ません。おまけにガラにも無く、雲仙地獄谷のボランティアガイドなどをしたものですから、余計に自然の移り変わりを見ることになりました。
例えば、ツツジひとつ例に取っても、春には可愛らしい花を咲かせ、一週間もすれば花が枯れてしまい、小さな白い粉状の種を風に飛ばし、また暑い夏を耐え、秋には小さな芽を育み、冬には芽と共に寒さに耐え、春になってまた花を咲かせるといった、自然の法則または条件によって、移り変わっていくのです。
この世界に存在する、全てのものは無常の世界から、けして離れることはできないのです。それは、自分の心の中を観ても同じではないでしょうか。心の中に、正しい考え方と、正しくない考え方とが、生まれては消え、消えては生まれしていませんでしょうか。
平安時代の無常観は、全てがいつかは滅んで終わるという、虚無的な考え方や生き方につながっていたと思います。しかしながら、さらに自然を観察し続けると、事象の終わりは、次の新しい事象の始まりとなっております。そして全ての事象は、条件に応じて、中立的に、生滅ではなく、変化を続けているのではないかと思われます。
人間は、ものごとを把握しやすくするために、始めや終わりを決めていますが、よく観察すれば、だだ変化の過程の一区切りではないでしょうか。
例えば、数百年生きた杉の木が、命を終え、倒れたとすれば、その杉を栄養分にして、細菌・黴・コケ類さらには小さな虫などが、活動をはじめます。その結果、杉は森の土へと還って往き、またこれを養分として、新しい植物が育っていきます。
命には繋がりがあり、終わりは始まりであり、始まりは終わりへと、絶え間なく連鎖を続けております。雲仙の美しい自然も、一瞬たりとも同じではなく、変化をし続けております。
自然界では、人為的にそのあり方がゆがめられない限り、必要でないものは無く、条件の変化に応じて、全てが調和して平等に、存在しています。
ちょっと自分を取り戻したいと感じたとき、雲仙に遊びにいらっしゃいませんか?箱庭的な雲仙の自然の中で、都会では見ることの出来ない、自然の営みが、何事かをあなたに語りかけてくれるのではないでしょうか。

いきているお経ーその1-

いきているお経も10年以上前に書いた文章なので結構硬い内容になっています。まあ、戯言と思って読んで頂ければとおもいます。
(本文)
本題に入る前に、なぜ雲仙が、仏教修行地になったのかということを、歴史を振り返りながら、素人なりに考えてみました。
雲仙の別所付近では、縄文時代前期(6000年ほど前)の住居跡や焚き火の跡、土器(10000年~8000年前)や黒曜石の鏃(やじり)などが発掘されています。雲仙に住んでいた、縄文時代の人達は、狩や木の実などの採取をすることで、生活をしていたとのです。また、縄文時代の人々は、山に精霊や魔物が住んでいると考えて、雲仙のお山に恐れと親しみを、持っていたと思います。
(余談ですが、もし私のように面倒くさがりの縄文人がいたら、火を焚く手間を省いて、地獄の湯気で色々な食べ物を、蒸して食べていたかもしれませんね。)
時代が移り、弥生時代になると、稲作が始まります。稲作は水が無ければ成り立ちません。山は水を生み出し、山から流れてくる水次第で、豊作や不作になると、弥生時代の人達は考えていました。ここに、豊作祈願をするための、信仰の対象として、雲仙の山岳信仰が始まったと、言えるのではないでしょうか。
また、弥生時代には、砂鉄を使った「たたら製鉄」も始まったと言われています。時代は異なりますが、雲仙の歴史の中にも、多比良町金山に護摩の長者が登場します。田代原入り口附近には、まだ長者屋敷跡が残っているそうで(まだ、見に行ったことがありません)、金屑山という鉄の屑を捨てた所があるそうです。
この事からも、仏教伝来以前に、砂鉄が豊富に産出する雲仙に、鉄を生産する特定の人々が、集まって住んでおり、同時に、この利権を守り見張りをする人々が、存在していた可能性があります。
また、この利権を守っていた人達は、守権者(しゅけんしゃ)と呼ばれていて、仏教伝来以降に、修験者(しゅげんしゃ)と呼ばれるようになったのではと、想像をしてみましたが、誰もそんなことを言う人はいないので、ただの妄想なのでしょう。
さて、温泉山縁起には、人皇第四十二代文武天皇の御代大宝元年四月十七日行基菩薩佛法弘通(仏法がひろく広まること)のため、高来山(雲仙)を卜(ぼく)して(亀の甲羅を焼いてそのひび割れで吉凶を占う)三十七日の満願の時、五更(午前三時半から五時)の空に十丈ばかりの大蛇が現れ菩薩に向かえば、たちまち変じて4面の美女となると記されております。
私は、昔から大蛇が何故現れ、菩薩に向かうのか、大変不思議に思っておりましたが、他の事に忙しくもあり、長年放りっぱなしにしておりました。しかし、ホームページに、どのようにして雲仙が、仏教修行地になったのか書き込むに当たり、もう一度この表現について、検討してみることにしました。(次回に続く)

いきているお経ーその2-

本日(平成30年4月5日(木)、雲仙は雨となりました。晴れの日が続いていたので、目を覚ましました時、周囲が暗くて、まだ夜かと持ってしまいました。昨日まで、山の緑の中に映えていた山桜が、散ってしまわないことを祈りつつ、昔書いておりました文章をアップいたします。
本日は、少し短めになります。

いきているお経ーその1ーより続く

雲仙が、仏教修行地になったのかについては、色々な説があるかもしれませんが、白い蛇が弥生時代からの、古い神を信じる勢力を暗示し、菩薩が仏教勢力を暗示していると仮定するならば、古い山の神(白い大蛇)を祀る勢力と仏教(菩薩)を信仰する勢力との間に、争い(菩薩に向かい)があり、最後に仏教勢力が、勝利を収めたと考えるのが、素直な解釈ではないでしょうか。
真偽のほどは分かりませんが、大宝元年(西暦701年)には、雲仙が開山されると記録されております。
大宝元年以降、雲仙の山岳仏教は盛んになり、高野山・比叡山と並ぶ、仏教の三大修行地と言われるようになりました。
最盛期には、瀬戸石原(現在の札ノ原)に三百坊・別所に七百坊合計一千坊もの僧坊を誇り、世の崇敬を集めていたと記録されております。(いきているお経ーその3-に続く)

いきているお経ーその3-

暖かい日が続いていましたが、本日は突然の雪が降り出しました。本日の気温は3度です。冬か!とツッコミたくなる寒さです。でも、山の春は既に訪れており、当館の庭では、椿とヤマザクラと大粒の雪が共演する、何とも言えない美しい光景が見られました。
余談はさておき、いきているお経の続き(-その3-)を投稿します。

今まで書いてまいりましたのは、歴史的な雲仙仏教の流れでした。ここからは、父の思い出につながる話を、書いてまいります。
ある日、今は亡き父が、「雲仙には、いきたお経のあるとバイ。」と私に話はじめました。
幼かった私は、「へー」と軽く聞いておりました。すると父は大変真面目な顔をして、「今は分からんかもしれんバッテン、大切なことジャッケン(大切なことだから)、覚えとかんね(覚えておきなさい)。」と言いました。
私は、意味は分かりませんでしたが、(当時は素直な子であったので?)とりあえず「ハイ」と返事をいたしました。父の言葉を、突然思い出しましたのは、10年ほど前に、ボランティアガイドをしていたときのことでした。そして、ガイドの勉強ついでに、ずっと気になっていた、父の言葉の謎に結論を出してみようと思いました。
但し、私の生家である湯元は、もともと真言宗を家の宗教としておりましたが、明治に至り政府の指導で、神道に宗旨替えをいたしました。(実は、江戸時代、島原の松平藩は譜代大名であり、明治政府から、賊軍と見なされかねない立場だったものですから、島原藩の家臣であった湯元は、明治政府からの迫害の危険を感じ、宗旨替えをいたしたとのことです。)また、宗旨替えをしたことで、湯元の人々は村八分になり、大変な苦労をしたとも、聞いております。
このような事情で、私は仏教に関する知識・経験が浅いので、仏教を修めた方々にとりましては、私の書くことは、噴飯ものかもしれませんが、足りない部分はお許しいただきたいと思います。また私は、未だに仏教のどの宗派にも属しておりませんし、特別な修行もしておりません、さらに仏教の考え方に共感してはおりますが、命を捨ててまで信仰を守り抜く信者でもありません。
雲仙の歴史を考えるための、基礎知識として仏教を取り扱っておりますことを、ご理解いただいたうえで、以下をお読み下さい。ーその4に続くー

いきているお経ーその4-

昨日は何十年かぶりに、4月に雪が降りました。本日は少し肌寒いですが、青空が広がっています。今日は日曜日なので、投稿を休もうと思いましたが、もう少しで”いきているお経”が終わるので、頑張ることにしました。
(その3より続く)
仏教は多岐の宗派に分かれており、その指導方法も様々に分かれております。 ただ、その宗派が、仏教であるか、それ以外の教えなのかを判定する基準があります。仏教であるか否かの基準は、三宝に帰依することを、教義としていることだそうです。帰依という言葉は、元々サンスクリット語の中国語訳で、優れたものに対して、自己の体や心を全て投げ出し、 疑いを持たずに信じるという意味があるそうです。
仏教の三宝は、三つの対象への信仰という意味に、解釈してよいと思います。三宝は仏・法・僧を意味します。一般的に、仏は仏陀を、法は真理または仏陀の説法を、僧は仏陀の教えを信じ仏陀の教えを広めるために、尽くす集団をいいます。
言い換えれば、悟りを開いた仏陀その人の実在性と行動を信じ、仏陀が示した真理を信じ、仏陀の教えを広めるために尽くす集団を信じ、 自己を捨ててこれらに尽くすことを教義としている教えを仏教といい、それ以外とを分ける基準ともなります。
さて、仏教の基本の教えは、通常三法印であると言われております。(四法印とするお経もあるそうです。)法印とは、仏教の根本的な考え方、またはものごとの解釈方法です。 三法印は、諸行無常 諸法無我 涅槃寂静 の言葉で表現されます。素人解釈ですが、以下、それぞれの言葉の意味を解釈してみます。
諸行無常とは、全ての事象や現象は常に変化するものであり、他の事象や現象とのかかわりが条件となって、 一時的に存在しているとの解釈になると思います。
また、諸法無我とは、全ての事象や現象は、他との事象や現象とのかかわりが条件となって存在しており、他の事象や現象と何のかかわりもなく 存在するものはない。また、他事象や現象とのかかわりを持たずに存在する自己(=我)さえもないとの解釈になります。
さらに、涅槃寂静とは、諸行無常・諸法無我の真理を理解・納得することで、欲望を求めてとまない衝動的な感情を捨て去り、苦しみを脱し 精神(こころ)の迷いがなくなった状態になろうという、仏教の目的であると解釈できます。
以上、仏教の基礎知識の解説はここまでとして、雲仙にいきたお経があるとの父の言葉を、どのように解釈すればよいのかが、 依然課題として残っております。
手掛かりとしては、いきているとのキーワードから、①現実に存在するものであること、 お経というキーワードから②雲仙が仏教の修行の地であったときに、すでに存在していたものであること、さらに、仏教との関わりからみて③仏教用語が使われているものを対象にして、考察すべきだと思いつきました。そして、雲仙に現存するもので三つの条件を満たす、一番大きな手掛かりは地獄谷であると思いました。
従って、ここからは仏教と地獄谷とのかかわりを考えてみます。(その5に続く)

いきているお経ーその5-

今日ふと道端を見ると、タンポポの葉があちらこちらに見ることが出来ました。山の上はまだ肌寒いのですが、確実に春の訪れを感じられます。

(その4より続く)

仏教が全盛時代、文字の読めない人も多かったはずです。文字の読めない人達に、観念的な概念や真理を理解してもらうことは、 大変困難だったことでしょう。
雲仙の地獄谷は、文字を読めない人達に、欲望をもとめてやまない衝動的な感情に押し流され行動すれば、 どの様な苦しみに至のかを、目で見せて理解させる道具として使われていたと考えられます。地獄谷の仏教説話としての利用は、容易に検討がつきます。
しかし、怖がらせてばかりだけでは、人々は逃げ出してしまうばかりのはずです。ここまで来れば、地獄の対極として、極楽や浄土を見せる必要が、出てくるのではないかと思われます。そこで何か重大なことを、見逃していないか、私は考え続けておりました。 そのような折、ある日突然、私の頭の中に「満明寺の庭園」という、キーワードがひらめきました。
しかし、庭園に仏教の考えが活かされているという、歴史的事実が無ければ、満明寺の庭が浄土を現しているとの、 推定がきません。もののついでだと思い、庭園史を調べてみると、「飛鳥時代に、中国から伝わった仏教の世界観を表現した庭園が造られたという」 との表現を見つけることができました。
雲仙が修行の山であったという、特殊な事実を考えれば、浄土を表現する手段として、 満明寺の庭(=原生沼)が使われていたと、考える妥当性はあると思います。
長い道のりではありましたが、今では、父が言っていた「いきているお経」とは、迷いから悟りの世界を現すために使われた、 地獄谷や原生沼と、それを取り巻く、雲仙の自然そのものではなかったのかと、考えております。
最後になりましたが、地獄谷の名誉のために、一言付け加えさせていただきます。
地獄谷は、恐ろしいばかりの所ではなく、地獄谷があるからこそ生きて行ける、 ツクシテンツキと名づけられた珍しい植物があり、地獄谷の恵みを利用した燗付け(水→お湯)・源泉の利用などがあります。
善悪や勝ち負けで物事を判断する、平面的な考え方に陥るのではなく、物事を公平に多角的に見ることで、世界は広がります。 色々なことを許す、慈悲の心も生まれてくるのではないでしょうか。ひょっとすると、欲望をもとめてやまない衝動的な感情に押し流されず、 仏になろうとする心を、持ち続け努力する人こそ、父の言いたかった、いきているお経なのかもしれませんね。(終了)

一寸休憩

このところ、大変真面目な投稿が続きましたので、私自身が息切れし、兎に角肩の凝らない話を書いてみたくなりました。
そこで、誠に勝手ながら、本日は過去の投稿をし直すのでなく、徒然なるままに書かせていただきます。
さて、雲仙で住む楽しみは、
①四季折々の箱庭のような景色が楽しめる
②手軽に温泉に入れる
③騒音が無い(耳を澄ませば小鳥の声が聞こえる)
④空気や水が美味しい
⑤長く住んでいると、農業をされているお知り合いの方から、旬の野菜のお裾分けを頂ける。
等々です。
都会のように、便利な暮らしが出来るわけではありませんが、自然の時間の流れに身を委ねることができます。
都会の慌ただしさや忙しさに、疲れた心身を癒したいと思われている方には、長期滞在がお勧めです。
話は変わりますが、まだ可憐な山桜が頑張って咲いています。見に来て下さい。

宮崎康平先生ーその1-

今日から、私の大好きだった、宮崎康平先生のお話を投稿します。母が宮崎康平先生のエピソードや出来事を語っておりましたので、是非先生についての思い出を書いて下さいとお願いしていたのですが、書くことができなくなり、とても残念に思っておりました。そこで、私の心に残る、宮崎先生とのエピソードを書くことにしました。宜しければお読みください。

(その1はじめ)
宮崎康平先生は、島原の子守唄の作詞とまぼろしの邪馬台国の著作で有名になられた、 盲目の詩人です。
私が幼い頃、宮崎康平先生が、何度も湯元に遊びに来ておられたので、 親戚のおじさんぐらいに思っておりましたが、湯元との血縁関係はないそうです。
いつも明るく元気一杯の人で、私が居りますと笑顔一杯で、 「ソウシュンコザエモン、元気にしっとたね」と、声をかけて頂いておりました。
宮崎先生は、とても不思議な方で、目が見えないはずなのに、 私が、息をひそめて先生をワッといって驚かそうと、廊下の角に隠れておりますと、 逆にワッといって、驚かされたりしておりました。
余りにも不思議だったので、「先生、なして(何故)僕の居るとの分からすとですか?」と聞いてみました。
「オイ(俺)は、忍者の修行バしたけん、分かるとタイ」と先生は笑ってお答えになりました。 幼かった私は、先生の言葉をまともに信じて、ひょっとすると先生の白いステッキは、 仕込み杖になっているかもしれないなどと想像をし、 大人になったら、絶対に忍者の修行をしようと、心に誓いました。
後で考えて見ますと、先生は、島原鉄道再建のため大変なご苦労をなされ、過労のために失明されておられます。その頃絶望を耐え忍ぶ術を見につけられて、本当の忍者になられたのかもしれませんね。
(その2に続く)

宮崎康平先生ーその2-

本日は大変お天気が良く、暑すぎず寒すぎず、とても快適な日です。雲仙のツツジの芽も膨らみ始め、開花に向けての準備を始めました。(例年は5月の始め頃に開花します。)待ち遠しいです。

(その1より続く)

さて、もうひとつ宮崎先生は、何故私を「ソウシュンコザエモン」と呼ばれるのか、お尋ねしたことがございます。
先生は、私の名前が宗俊(むねとし)で、江戸時代の偉いお坊さんで、河内山宗俊(そうしゅん)という人と、 読み方は違うけれども、同じ名前であること。 湯元の代々の当主は名前の下に、小左衛門とつける慣習になっていることを、教えてくださいました。
そして、「そいけんか(だから)えろうならんばぞ(偉くなれよ)」と言われました。 私は宮崎先生が大好きでしたので、「ハイ」と元気よく返事をいたしました。
それから、高校を卒業するまで、「私の名前は、河内山宗俊と同じです。」と、 皆に胸を張って自己紹介しておりました。あるとき、自己紹介をしたあと、国語の先生が微妙な表情をされておられたので、何か変だぞと思い、後で調べてみますと、河内山宗俊は稀代の悪坊主ではありませんか!!!!
宮崎先生が生きておられたら、是非一言いいたいのですが、いくら私が悪戯ばかりしていたとはいえ、 ユーモアもほどほどにしてください、本当に赤面しました。
こんな楽しい宮崎先生が、湯元に来られるようになられたきっかけは、 先生が亡くなられた後に、母から聞きました。 きっかけを作りましたのは、父でございます。
父は、まったくと言っていいほど、商売に熱心ではない人でした。
囲碁と書道の有段者であり、おまけに釣りに尺八にゴルフと、他の家族が趣味を持たない中、 一人で趣味を引き受けておりました。
そのくせ、他人より目立つことが嫌いで、表彰などを受ける話があっても、すぐに辞退する人でした。
宮崎先生が失明以前に、事業家として活躍されていた頃、 父と先生は、余り親しくは無かったそうです。
(その3に続く)

宮崎康平先生ーその3-

雲仙は本日雨模様です。自分のイメージの中にある春の雨、少し暖かな、雨音のしない、何となく艶めかしさのある、子供の頃の訳もなく浮き浮きとしていたころの、そんな雨が今降っています。

(その2より続く)
しかし、ある日突然、そんな父が、失明された宮崎先生を連れて、帰って来たそうです。
母が驚いて父に、どうするつもりかと尋ねますと、「地獄谷ば介添えもなく、一人でフラフラしよらしたとたい(していらしたのだ)。宮崎さんが元気かときは、 世話になったり、恩ば受けたりしとった人間は、一杯おったとに(沢山いたのに)、 失明さしたら(されたら)誰も面倒ばみらんとたい(面倒をみようとしない)」と父は心から憤慨していたそうです。そして、他の人間がどうあろうとも、「オイ(私)が家で世話ばするとたい(湯元で世話をするのだ)。」と語ったそうです。
私は後で知ったことですが、宮崎先生が失明されたとき【昭和天皇が島原半島をご訪問される準備をするため、毎日徹夜が続き、それが原因であったと聞いている。】、多額の借金を持っておられ、乳飲み子を置いたまま、 奥様に逃げられ、最悪の状態だったそうです。
ある日、父は母に「宮崎さんはかわいそか(可哀相だ)」と話し出しました。
その日は、借金取りが宮崎先生に、返済の催促にきておりまして、 さすがの宮崎先生も、布団に頭を突っ込み、「きこえん(聞こえない)。きこえん(聞こえない)」と、 言われていたそうです。その頃の話をする時、母は必ず涙ぐみます。 あの元気で明るい宮崎先生に、そんな時期があったなんて、私には不思議な気がいたします。
しかし宮崎先生は、最悪の事態にもめげない、不屈の男でした。 湯元に滞在中は父と共に、二度目の奥様と巡り合われてからは奥様と、 島原半島の歴史と島原弁を調べ上げ、とうとう大ヒット作、島原の子守唄を作られたのです。
また、姉の話によりますと、まぼろしの邪馬台国は、湯元で書き上げられ、 第一回吉川英治賞を受賞されました。
(おわり)
本文に無かった部分は【 】で書き加えております。

もう亡くなってしまいましたが、私を可愛がってくださった叔父の話では、ある日借金取りが来たときに(その借金取り宮崎康平先生の顔を知らなかったそうです。)、宮崎康平先生がたまたま玄関におられ、「今日はどっかに(どこかに)出かけちょらす(出かけていらっしゃる)。」と言われて、借金取りを帰らせたそうです。これをみていた叔父は、「おかしゅうして(可笑しくて)はらのちぎるっごたった(お腹が張り裂けそうになった)」と語っておりました。先生はやっぱり面白か~!!!

 

いよいよです。

今朝は昨日からの雨も止みましたが、霧が出てしまいました。
御出立をされるお客様が、安全でお帰りになられますようお祈りいたしております。
皆様ご存じのこととは思いますが老婆心ながら、霧の中での運転は、①突然の飛び出しに備えて、スピードを出し過ぎないこと、②対向車に位置を知らせるため、ヘッドライトを必ず点灯することの2点を守ることが大切です。
ときどき霧が出ているのに、かなりのスピードでかつ点灯もしないで走っている方がいらっしゃいますが、過信は事故のもとでございますよ。
さて、旧ホームページに掲載致しておりました記事の投稿が、昨日をもちまして終わってしまいましたので、いよいよ新しい内容の投稿を始めなければならなくなりました。どぎゃんしたらよかとやろかい!(どうしたら良いんだろう!)
とりあえず、明日から行き当たりばったりで書き綴ろうと思っています
本日はこれまで。

すごすぎる!-その1-

今朝は穏やかな朝日が射し、青空が本当に綺麗です。
山桜は花を散らしましたが、冬場はしらじらとしていた幹が、黒味を帯びてつやつやと日の光に輝き、さくらんぼの実をつけるための準備を始めています。
(はじまりはじまり)
さて、今回は”すごすぎる!”というタイトルを付け、雲仙温泉と周辺の”すごすぎる”を紹介したいと考えています。
①地球の活動を体感できる地獄谷
雲仙温泉は山に囲まれた土地です。西は絹笠山、東には矢岳がそびえています。
また、西の絹笠山と雲仙温泉の境には、面積約1.2haの原生沼があります。この原生沼の沼野植物群落(しょうやしょくぶつぐんらく )は国の天然記念物に指定されています。また、九州では数少ないカキツバタの野生地のでもあります。植物学者でもあられた昭和天皇も、コケ類の採取に雲仙を訪れられたことがあります。
この原生沼は、元々地獄谷があったところで、その地獄の活動が止まった場所に水が溜まって池となり、土砂が堆積し沼となったものです。
原生沼の地獄の活動が止まった後、その活動は旧八幡地獄に移り、さらに旧八幡地獄が活動を弱め、東の矢岳のふもとに在る現在の地獄谷へと移動しています。
雲仙温泉は、人々が暮らす直ぐ傍で、何万年?何千年?何百年?かをかけて、地獄谷が移動して行った跡を見ることが出来る、日本でも貴重な場所であり、日本初である、ユネスコが指定する島原半島ジオパークの中心部にあります。
余談ですが、ユネスコの調査員の方達が、地獄の活動が続いている地域に、人が住んでいることが信じられないと話されていたそうです。(縄文時代の石器や鏃が温泉街の周辺で見つかっていますので、有史前から人が住んでいたことになります。)
(その2に続く)

すごすぎる!ーその2-

本日も朝から穏やかな一日が始まっています。ホテルの中庭にある椿の花の間を一匹の野鳥(名前分かりません。)が春の日を楽しむかのように、飛び回っています。今年はツツジが咲くのが例年より早くなるのか、もう蕾が色づき今にも開花しそうな気配を感じています。
(その1より続く)
地獄谷と言えば、この世で悪いことをした人が死後の世界で苦しみを受ける場所である、地獄をイメージする名称になっています。
雲仙温泉が嘗て仏教の修行の山であった時代には、お坊さんが信者さんを伴って地獄を巡り、この様な場所があの世にある地獄であると説明ていたそうです。ですから、地獄にも名前がつけられており、大罪を犯した人達が送られる大叫喚地獄や、悪いことを考える人達が送られる邪見地獄といった名称を持つ場所があります。(詳しくは”生きているお経”を参照してください。)
そんな地獄谷ですが、良く良く観察すると通常は生き物が生存できない、強い酸性の温泉が混入した川のすぐそばに、ツクシテンツキやカヤが生えており、そこから少し離れたところにツツジやその仲間であるシャシャンボやシロドウダンが、さらに離れた所には赤松が生えています。
これらの植物は、酸性に強い植物であり、また太陽の光が大好きな植物です。環境の良いところでは、大きな木が育つため、太陽の光が届きにくくなり、育つことが出来なくなるのです。(詳しくは https://www.shinrin-ringyou.com/shinrin_seitai/seni.php 森林・林業の学習館を参照されると良いと思います。)
つまり、地獄谷の植物を良く観察すると、時には数百年かけて形成される森の成り立ちを見ることが出来る貴重な場所であり、裸地から森林へと変化する過程いを一目で見ることが出来、まるでタイムマシンに乗っているような体験が出来るのです。(「夏休みの研究課題としては、大変面白いのでお子様連れの方は是非お越しくださいませ。」と宣伝を入れてみました。女将今日は仕事してますよ~!)ついでに書いておきますが、沼から森林への過程も雲仙温泉にある原生沼を観察することでみることが出来ます。
さて、ちょっと硬い話になりますが、全ての生命は与えられた環境に精一杯適応し生きています。自分だけが何でこんなに辛いのかと考えていらっしゃる方、それぞれの環境で精一杯生きている命を見れば、自分も頑張ってみようと思うファイトが湧いてくるかもしれませんよ。
(その3に続く)

すごすぎる!-その3-

雲仙湯元ホテルは、標高700mの所にあります。庭の日当たりの良い場所にあるツツジは、小さな花を咲かせ始めました。山笑うと言いますが、山の彼方此方(あちこち)に新緑が映え、山が若返り、とてもウキウキして今にも踊りだしそうに見えます。
(その2より)
さて突然ですが、大きなスコップを使って穴掘りをしたことがありますか?穴掘りをしている時に石にスコップが当たり、石の周辺を掘ってその石を取り除こうとしたとき、ほんの45立方センチメートルの石でも、相当頑張らなければ人力で取り除くことは難しいと感じられると思います。
私は雲仙温泉から車で5分ほど下った千々石町の上岳というところで、ボランティアで森林整備や公園造りをしている、”温泉四季の岳”というグループに参加しています。このグループで公園に紅葉を植える作業でスコップで穴掘りをしていたときに石に当たってしまい、たったひとつの石を取り除くため大汗をかき、やっと石を取り除き、息が切れてあたりを見回した時、周辺に広がる棚田が目に入りました。
急峻な斜面に僅かな田圃を作るために、私が掘り出したより何倍も大きな石を数メートルも積み上げ石垣を組んでありました。場所によっては、田圃より石垣の面積が広いところがあります。あまりの凄さに私の周りの時間が止まりました。
機械や自動車が無い時代、人や牛馬によって自分達が飢える事無く生き残るため、そして自分の子供たちが飢える事無く生き残るため、眩暈がするほど膨大な時間をかけ積み上げられた石垣。その石垣の隙間を埋めるため、粘土を詰め土を盛り、やっと僅かな耕作地や田圃が出来上がるのです。
親しい農家のおかみさんが、私共のホテルで配膳の仕事をされています。ある時、そのおかみさんが、「うちの子供達は、いっちょん農作業ば手伝わん(全然農作業を手伝おうとしない)。仕事とおもとるけん手伝わん(仕事と思っているから手伝わない。)」と話していらしたので、「仕事ではないなら、何ですか?」と私がきくと、「生きることたい。」と返事が返ってきました。
この短い会話の中には、先祖が自分達のために命がけで耕してきた、畑や田圃を守り抜こうとする人の、強い気持ちが込めれれていると思いました。
加えて、直ぐに結果を求めてしまったり、自分の事しか考えず感謝の心が足りない小さな私を、心から反省させられました。
生きることは、次の命を思いやりながら繋ぐこと、命を継いだ人は先祖に感謝しながら、また次の命を思いやりながら繋いでゆくという、何百年にも渡って繰り返されてきた事実。歴史に残ることの無い、偉大な人々の営みを、千々石の棚田に観ることが出来ます。
(その4に続く)

すごすぎる!ーその4-

本日も良い天気です。太陽の日差しが日に日に強くなっていくのを感じます。
(その4)
”その3”では、千々石の棚田について書きましたが、実は南串山町には棚畑があります。この地域の人達も急斜面を切り開いて畑を作っていらっしゃいます。
雲仙から車で約15分ほど国道57号線を小浜方面に下っていくと、左手にグリーンロードが見えてきます。このグリーンロードを更に15分ほど車で走ると、南串山町の棚畑を見ることができます。
谷底から山沿いに広がる棚畑は絶景です。棚畑を作り上げた人々の苦労とこれを維持して行こうと奮闘されている人々の凄さが胸に迫ってきます。
千々石町上岳の棚田米と南串山町のジャガイモは機会があれば、是非お買い求めください。
(おしまい)

雲仙国立公園の話

毎日良いお天気が続いております。昨日は佐賀県や久留米市では気温が29度まで上がったとのニュースが報じられていました。今年は夏が早く来そうな予感がします。
雲仙は最初の国立公園です。意外に知られていないのは国立公園になるための条件です。国立公園になるための条件は、海と山が同時に見えることだそうです。
雲仙の火山群から噴出する溶岩にケイ素を多く含んでいるため、溶岩ドームが固まると急峻な山になります。従って展望が良く、海と山が同時に見えるという条件を満たすことが出来ました。
それでは、何のために国立公園の指定がなされたのでしょうか?
当初の目的は、外国人観光客を誘致して、外貨を獲得するために、公園を整備する目的地として、国立公園の指定をしたそうです。
もともと雲仙は、明治時代から上海航路を使っていた外国人を受け入れていた実績があり、外国人観光客と全国民の投票によって、日本第一号の国立公園になりました。
現在日本は国を挙げて、観光立国を目指しておりますが、すでに1934年に雲仙国立公園が誕生しておりますので、約80年前の日本で、規模は小さいながら、同じように観光への取り組みが行われていたことになります。

島原半島ジオパークーその1-

今日も青空が広がっています。昨日の気温は21度まで上昇し、かなり暖かくなってきました。日差しもかなり強くなって、ついこの間までは体を温めるために日差しを使っていましたが、昨日は日陰に避難している自分に気付き、時の流れの速さをつくづく感じる今日この頃です。
(はじまりはじまり)
さて、島原半島は2009年8に洞爺湖有珠山、糸魚川とともに日本初の世界ジオパークネットワークへの加盟が認定されました。島原半島ジオパークのテーマは自然との共存です。
つまり、ユネスコの世界ジオパークネットワークによって認められた、島原半島の火山活動によって生まれた、世界でも珍しい独特な自然環境と、それに関わる歴史と文化が面白いので世界中の沢山の人に訪ねて欲しいと地域と解釈できます。
それでは何が面白いのかを書こうと思ったのですが、息切れしてきたので・・・・。
(その2に続く)

島原半島ジオパークーその2-

本日は晴れです。一回怠けてしまうと、なかなか投稿する決心がつきません。facebookやインスタグラムやツイッターとかいう情報発信手段を使って、毎日投稿をしている人達は凄いですね。とても人間ワザとは思えません!などと思っているうちに、時間ばかりが過ぎて行きます。
余計なことですが、どこかで似た体験をしたことがあるぞと考えていたら、学校の宿題を思い出しました。
学生時代宿題をしなければと思っていても、後でやろうと思って、本を読んだりテレビを観ているうちに時間が経って眠くなってしまい、そうだ明日早起きして宿題をやってしまおうと思いながら熟睡し、結局朝起きることなく、先生から叱られるのを覚悟して、暗い顔をして登校していました。
そうか~ 大人になっても状況はあまり変わらないんだな~ と思いながら、渋茶をズズッとすすっていたら、横に座っている女将と目が合ってしまいました。はいっ!分かっております!直ぐやります!と心の中で思いつつ以下書かせて頂きます。
(その1より)
島原半島の造山活動は、周辺部が古い火山活動によって形成され、中心部が比較的新しい火山活動によって形成されています。ある意味年代別に火山が並べられた火山の博物館と言って良いと思っています。
また、この火山活動によって生じた断層が、戦国時代から江戸時代にかけての勝敗を分けた戦場となっていますし、珪素を多量に含んだ溶岩によって形成された雲仙の山々は急峻であるため、海岸沿いには亜熱帯植物が茂っていると同時に山頂部分には寒帯植物が茂っているという、誠に珍しい地域でもあります。
更に、戦場食であった具雑煮や噴火による飢饉のときに考案された”ろくべい”という郷土料理、世界の食の遺産に指定されたコブタカナやエタリの塩辛というものまで残っています。次回以降で詳しく書かせて頂きたいと思います。
(その2へ)

島原半島ジオパークーその3-

「いや~真面目な話は肩が凝りますな~。のどかな五月晴れの日に、ノートパソコンに向かっているのではなく、山登りでもしたいですな~。」と思いながらコーヒーを一口飲んでいます。
ウァ~!女将の早くブログを書きなさい光線が、チクチクとやわ肌に突き刺さって参りました。(か、書きます書きますから~)
(その2より)

日本の火山活動は、プレートと呼ばれる地球の表面を覆う厚さ100kmほどの海水を多く吸った岩盤が陸側の岩盤の下に沈み続けており、そのプレートの動きが地震を発生させ、また、その岩盤に含まれている水分の働きで地球の内部の岩石(マントル)が溶けたもの(マグマ)が地表に流出し、噴火が起こると考えられています。

だったら何故岩盤(プレート)が動くのでしょうか?これには色々な説があるそうですが、地球内部の岩石(マントル)が移動しこれに引っ張られて岩盤(プレート)が動くという説が有力ではないかとのことです。

それではなぜ岩石(マントル)は動くのでしょうか?これも色々な説があるそうですが、一般的には、地球内部にある岩石でかんらん石という鉱物が、高温で軟らかくなり、1000度以上の状態である方向に流れるからだそうです。

どうでも良い話ですが、かんらん石を漢字で書くと、橄欖石になるそうで、ふりがな無しではとても読めないと思いました。

さて、島原半島はユーラシアプレート上にあり、全体的には南に移動しています。ここで面白いのは、島原半島の南の部分と北の部分は移動速度が違っていることです。島原半島の南部分は移動速度が北の部分より速く、その結果島原半島に裂け目(断層)が出来上がります。

もし、そのまま裂け目が広がれば島原半島は分断されてしまいますが、中央部分で噴火活動があり溶岩が供給されたため、現在のところは一つの半島になっています。

余計な話ですが、この説明を受けていた時に素人の怖いもの知らずで、当時九州大学名誉教授の太田一也先生に質問してしまいました。

私、「先生このままで行けば、島原半島はどんどん大きくなって、九州くらいの大きさになる可能性がありませんか?」すると先生は「可能性は有ります。」と答えて頂きました。そのお答を頂いて、私の心の中では悪魔のささやきが聞こえました、(ひょっとすると裂け目近くの土地を少し買っていれば、そのうち自然に土地が広がって大地主になれるかも!むふふふふ!)

私の邪悪な心を読まれたのでしょうか、先生は「但し、裂け目は1年に0.1ミリ程度しか広がりませんので、その結果を見るには何十億年もの時間が必要となり、ここに居る誰も生きて検証することは出来ません。」とおっしゃいました。私は、(10年で1ミリ、100年で1センチ、1000年で10センチしか広がらない!大地主になる前に命が無い!ア~ア!)と心で思い、私の浅はかで壮大な野望は潰えて行きました。めでたしめでたし。

ウ~ム!また話が脱線してしまった。こうなると脱線が止まらなくなるので、次回は心を入れ替えて書こうと思います。
(その4へ)

島原半島ジオパーク ーその4-

歳を重ねると、時間が短く感じるようになりました。友人の話によると、1日を自分の年齢で割るとその年齢で感じる時間の長さになるそうです。例えば、60歳の人は1歳の時の60分の1の時間の長さになるそうです。
そういえば、コーヒーをコップに注いで、熱すぎるので冷まそうと思って、ちょうど良い温度になったはずだと飲んでみると、物凄く温くなっていると感じる回数が増えたのは、年齢を重ねて時間感覚が変わってきているためかもしれない。
(分かった!この頃疲れると思っていたら、自分が思っている以上に仕事時間が長くなっているからだ!休暇を直ぐ取らなくちゃ!休暇願を書くぞルンルン!)と思ってふと横を見ると、(ウァ~女将が居る~)。
はい女将。私ちっとも疲れておりませんし元気です。直ぐブログ書いちゃいます。

(その3より)

さて、島原半島は裂け目が広がりつつあるのですが、このため断層が形成され、また100年~200年ほどの周期で噴火が起こります。

島原半島の断層は、YahooやGoogleの地図写真や現地の近くで確認出来る口ノ津断層・有馬断層・千々石断層・小浜断層・布津断層・金浜断層・深江断層等があります。これだけの狭い地域でこれだけの断層があるのです。断層フェチには堪らなく面白く思えます。

更に面白いのは島原半島の南端から次第に島原半島が形成され、現在は中央部に火山活動が移ってきていることです。中央部では島原半島の東部分が現在火山活動をしていることです。大まかに活動の推移を書いておきますと【約400万年前南島原市口之津町早崎地区周辺 → 200万年~50万年前南島原市加津佐町周辺北有馬町周辺 → 50万年前早崎地区を除く南島原市口之津町と北有馬町周辺 → 30万年~20万年前小浜町周辺と布津町の一部(高岳・高岩山・絹笠山・矢岳) → 20万年~10万年前千々石町・愛野町・吾妻町の一部(九千部岳・吾妻岳・舞岳) → 10万年~有史時代(野岳・国見岳・妙見岳・普賢岳) → 1663年、1792年、1991年~1995年(眉山・平成新山周辺)】となるようです。

年代別には400万年前からの火山活動の跡が順に残っていて、それを実際目で見ることが出来る、まさに火山の博物館と言えるのではないかと思っています。(さすがはユネスコのジオパークに最初に指定されただけのことがあると、自身は勝手に思っております。)

余談になりますが(いかん!今回は余談を書かないつもりだったのに勝手に手が~!)、他の人に島原半島の噴火の仕組みを分かり易く説明するためのアイデアを考えていた時に、あるアイデアが閃きました。しかし、素人である私が、このアイデアを使っても問題がないか自信が無く、暫く温存していました。すると、ある日突然、チャンスが目の前に転がり込んできました。

九州大学名誉教授の太田一也先生がジオパーク関連の会議に出席されており、たまたま先生の周りに誰も人が居なくなる瞬間が出来たのです。私は心の中で叫びました(今だ!今しかない!)。そして、気がついたら私は先生の側に駆け寄っていたのです。

「太田先生、私の様にあまり火山の知識が無い人に、感覚的にその仕組みを分かってもらうための説明方法を考えたのですが、素人である私が考えたアイデアを使って良いかどうか自信がありません。聞いて頂いても宜しいですか?」

すると太田先生はとても優しい笑顔で「どうぞ話してみてください。」とおっしゃいました。勇気を振り絞った私は「例えに、お饅頭を使ってみてはどうかと考えたのです。お饅頭の両側を引っ張って表面に裂け目を作り、下から押すと餡子がピュッと飛び出します。これが噴火のイメージですと説明したいのです。」とお話しさせて頂きました。私のレベルの低い話を、優しく微笑みながら聞いて下さった太田先生は、「その説明使っても良いです。」と言って下さいました。

(やった~!やった~!やった~!)私は心の中で叫び、先生に最敬礼しておわかれし、それ以降は客様にお饅頭を例に揚げて、島原半島の火山活動のお話を致しております。めでたし。めでたし。

(その5へ)

島原半島ジオパーク -その5-

今日は雨です。こんな日はついつい哲学的になってしまいます。人は何故仕事をするのか?生きるために仕事をするのか?生きがいを求めて仕事をするのか?などと考えているとふと(遊びをせむとやうまれけむ)という言葉が頭に浮かんできました。

早速、こまめな私はネットで(遊びをせむとやうまれけむ)という言葉を検索してみました。すると平安時代末期の歌謡集である梁塵秘抄(りょうじんひしょう)に書かれている歌であることが分かりました。

御紹介しますと、「遊びをせむとや生まれけむ、戯(たはぶ)れせむとや生まれけむ、遊ぶ子供の声聞けば我が身さへこそゆるがるれ」と書かれているそうです。

これを現代語に訳すと「遊びをしようとして生まれてきたのであろうか。あるいは、戯(たわむ)れをしようとして生まれてきたのであろうか。無邪気に遊んでいる子供のはしゃぐ声を聞くと、大人である私の身体までもが、それにつられて自然と動き出してしまいそうだ。」となるそうです。

いや~平安時代の人は偉い!私達人間は、面白おかしく生きるために産まれてきたのに違いない!うん、絶対にそうだ!そうと決まれば直ぐに実行が私のモットーである!今から遊びにイコ~ット!

んっ!?背後に人の気配が!なんか鳥肌が立ってきた。まさか妖怪?さ、さりげなく、おっ、落ち着いて、そ~っと首をまわして、後ろを振り返ると・・・・。ヴギャ~!女将シャマ!何でこんな処にお立ちになっていらっしゃるのでごじゃりまするか?

私「はい。今ちょうどブログを書こうかと準備をいたしておりました!ハイ?お邪魔したかしら?いえ、いえ、め、滅相もございません。どうぞご自分のお席に速やかにお戻りくださいませ。」とういう訳で大変真面目で働き者の私は、続きを書くことになりました。

(その4より)

前回調子に乗ってしまい、お饅頭の話ばかり書いてしまいましたが、最も大切な雲仙温泉のことを書くのをすっかり忘れておりました。

雲仙温泉の地獄谷も火山活動により、西側から東側に移動を続けています。西側には原生沼とよばれる湿地帯がありますが、この場所は大昔地獄谷があった場所です。地獄谷の活動が止まり、そこに水が流れ込み池となり、次第に沼になり周辺地は湿原とました。また湿原の周囲には面積は狭いのですが乾燥地もあります。

つまり原生沼の中心地は水が溜まる沼地、その周辺に湿原と乾燥地が広がり、わずか1.2haの原生沼を見渡すことで、沼地→湿原→乾燥地までの植生の湿性遷移を見ることが出来るのです。

原生沼から雲仙のテニスコートの横の道を抜けて東へ歩いて行くと、旧八幡地獄に到ります。旧八幡地獄は現在地獄の活動が終息を迎えつつある地獄です。また、この場所の松は、クロマツと赤松の混血(?)ではないかと思われる松が栄えています。(まだきちんと専門家のお話を聞いていないので、断定はできませんが・・・。)

以前聞いたお話では、島原半島のクロマツは海岸から標高700mのところまで繁殖しており、それより高い標高の場所では赤松が繁殖しているそうです。クロマツと赤松の繁殖の境界線が雲仙周辺では旧八幡地獄になっているのではないかと考えています。また、5月の初旬にはシロドウダンの白く可憐な花を見ることが出来る、スポットでもあります。

さらに、旧八幡地獄を抜けて清七地獄に入ると、須川という川の源流の一つとなる酸性の強い小川が流れています。須川は雲仙の麓の西有家に流れている川ですが、酸性分が強すぎて、魚が住むことが出来ない川であると言われています。

この小川の植生をみると、小川の直ぐ近くにはツクシテンツキ、次にカヤ、ツツジ類(ミヤマキリシマ・シャシャンボ等)、アカマツ等が茂っています。私は、これらの植物が太陽の光を一杯浴びるために、酸性の強い土質でも育つことの出来る能力を身に付けたのではないかと考えています。

また、この小川の近くから遠くなるにつれ、太陽の光が余りなくても育つことのできる檜や杉といった陰樹というものも目にすることが出来るので、300年から500年かけて裸地から極相林となる、一次遷移を一瞬で見ることの出来る大変貴重なサンプルになるのではないかと思っています。

(その6へ)

島原半島ジオパーク -その6-

年を取ると、人の名前が覚えられない、記憶が曖昧になるといった傾向が出てきます。従って、どの哲学者が定義したのか定かではないのですが、私が若い頃感銘を受けた言葉に「掃除とは永遠との戦いである。」というのがあります。

若いころ、毎日神経質なほどに下宿の部屋の掃除をしていた私は、その定義を読んで、永遠と戦うのは愚かであると考え、期間を6ヶ月と決め掃除を止めてみました。

結果明白!一人暮らしにも拘らず、ビニール袋に入れたゴミ(因みに、下宿に台所は付いていなかったので生ゴミは有りませんでした。)が山のようになり、もう少しでゴミに住まいを奪われてしまうところでした。危ない、危ない!

この実験の結果、19歳の私が学んだ事は、何事も程々にすることが大切であるということでありました。めでたし、めでたし。

老婆心ながら書き加えておきます。

今日はジオパークについて何も書かないのかと思われている方もいらっしゃると思いますが、お察しの通りでございます。このところとても真面目にブログを書いてきたので、先程の貴重な教訓(程々イズベスト)を活かして、今から散歩に出掛けることにしました。

あれ?机の上の電話が鳴っている。電話を取ろっかな~♪取らずにおこっかな~♪今日は気分が良いから取ってみよ~っと♪

(ゲッ!女将!)「はい?忙しいので手伝えと?お手伝いしたいのは山々ですが、今ブログを書いているまっ最中でして・・・・。はい、はい、お手伝いできないのが本当に残念です。それでは、ブログ継続して書かせて頂きます。」(な~んちゃって。)

以上の状況が発生し、大変突然ですがブログを書くことになりました。(それにしても、私が息抜きをしたいと思うと、何処からともなく女将のリアクション有り。ひょっとすると女将は超能力者?!・・・怖い・・・・。)

(その5より)

島原半島の中央部でよく見られる岩はデイサイトと呼ばれています。このデイサイトは、地下の深い場所でマグマがゆっくり固まって出来た岩(深成岩・火成岩)で、ガラスの成分ともなっているケイ酸を多く含んでおり(ケイ酸塩鉱物)、白い粒々が岩に含まれています。

デイサイトが地下の深い場所で形成された岩ですが、この岩を生み出す島原半島で起こる噴火の形態も大変特徴的で、地中深い場所でゆっくり固まった溶岩が噴出して溶岩ドームを作り、これが壊れて火砕流になります。また、島原半島の火山活動によって形成された山は、大変急峻な山になります。

一方、ハワイのキラウエア火山は、ニュースでも度々取り上げられる火山ですが、溶岩はトロトロと流れています。また、この溶岩は冷えて固まると、硬く黒っぽい玄武岩になります。また、この火山活動で形成される山は、平べったい山になります。

では、デイサイトと玄武岩の違いは何でしょうか?ケイ素(正確には二酸化ケイ素SiO2)の含有率の違いだと言われています。デイサイトは63~70%、玄武岩は45~52%を含んでいると言われています。

因みに、二酸化ケイ素の含有量が多い順に溶岩を並べると流紋岩→デイサイト→安山岩→玄武岩となります。

さて、地球はプレートという十数個の大きな岩盤に覆われています。このプレートは、マグマが供給され続けることで他のプレートから離れ続ける場所、また海中で冷やされプレートの密度が増し他のプレートの下に沈み込み続けている場所、さらに他のプレートとは関係なしにそのプレートの一部分からマグマが流出続ける場所の三つに分類出来るとされています。それぞれ、海嶺・沈み込み帯・ホットスポットと名付けられています。

島原半島は、薩摩諸島・奄美大島・沖縄・台湾といったプレートの直ぐ傍にある火山ではなく、プレートの端から離れた地震の少ない場所で火山活動が起きており、日本では大変珍しいハワイのキラウエア火山と同じ、ホットスポットと考えておられる学者もいらっしゃいます。

さて、文科系の私にはこれ以上の説明は無理なので話を変えますが。溶岩の性質で急峻な山が形作られる島原半島は、短時間で植生が変わっていく様子が見られます。

例えば、島原半島の口ノ津町早崎港近くでは、熱帯雨林で見られるアコウの群落や小浜の海岸付近ではジャカランタが見られますが、そこから約1時間の島原半島の妙見岳山頂付近では、モミなどを見ることが出来ます。

(その7へ)

島原半島ジオパーク -その7-

昔黒沢監督の「生きる」という映画の中で、主人公が口ずさむ「いのち短し 恋せよ乙女 あかき唇 あせぬ間に」という歌は曲名を「ゴンドラの唄」といって、吉井勇という方の作詞です。

吉井勇先生は、当館が湯元旅館であった時代に2度お泊まりになっており、最初にお泊まりになった際に「雲仙の湯守の宿に一夜寝て歌なと思ふ旅疲れかも」という短歌を残していらっしゃいます。これを記念して、昭和30年に作られた歌碑が雲仙湯元ホテルの駐車場前に設置されています。

この「ゴンドラの唄」の歌詞をじっくり読みますと、時の移り変わりの早さや諸行無常を感じてしまいます。特に60歳を過ぎますと、残り少ない人生を有意義に過ごさなければとつくづく思う今日この頃でございます。“いのち短し楽しめ爺(ジジィ)老いの衰え来ぬ前に”でございます。

さてそれでは、残り少ない時間を有意義に過ごすためには何をすれば宜しいのでございましょうか?何んですと!美しい音楽を聴きながら、美しい自然の風景を眺め、自分の目に焼き付けてみてはと?有りでございます!・・では具体的なプランを考えてっと・・・そうだ!ドライブが良い!早速ドライブに出かけよう!ドライブいいな~最高!

早速休暇願を書こ~っと!フン♪フン♪フン♪この手の書類を書くのは我ながらホレボレするほど筆が進む~!ルン♪ルン♪

「エッ?女将がお呼びです?」「ちょうど今、役所に提出する書類を作っているので手が離せませんと伝えて!」「エッ?それが終わってから掃除を手伝って欲しい?書類作成後にブログを書くので他の人に頼んで下さいと伝えて、お願い!」

ということで、状況適応力が極めて高く真面目な私は、休暇を諦めて続きを書くことにしました。めでたし!めでたし!

(その6より)

地勢という言葉を辞書で調べてみると、「地表面の垂直方向、水平方向の広がりの様相の事」と書いてあります。昔の人々は生きるために(農業や通常生活または軍事的な目的等に利用するために)地勢について、現代の私達に比べると、より真剣に調べたのではないかと思っています。

その証拠と言っては何ですが、特徴的な地勢を持つ場所で、大きな歴史的展開が起こっています。以下年代別に書き込んでみたいと思います。

1584年3月 沖田畷の戦い(おきたなわてのたたかい)

この戦いは、戦国大名の龍造寺隆信 対 有馬晴信・島津家久連合軍の合戦です。諸説ありますが、龍造寺側が約25,000人に対し有馬・島津連合軍が約6,000人という戦いで、両陣営には圧倒的な武力差があったことです。

また、戦いが起こったのは沖田畷という場所です(現在の島原市北門町付近)。ちなみに、畷とはあぜ道や田圃道を表す単語です。つまり、この戦いが起こった場所は、細いあぜ道が有るばかりの湿地帯であったということを意味しています。

1584年3月19日、有馬晴信の背信を知った隆信は龍王崎から出陣し、3月20日には島原半島北部の神代に上陸しました。

龍造寺隆信の家臣鍋島信生は、圧倒的な兵力に奢り一気に攻め潰そうとする隆信に対し、島津軍を警戒するように諌め、長期持久戦に持ち込む事を提案し、島津軍が肥後に撤退するのを待ってから有馬を攻め潰すように進言しました。しかし、龍造寺隆信は兵力に奢り、進言を受け入れることはしませんでした。

これに対し、有馬・島津連合軍は兵力的に圧倒的に不利であったにも拘らず、積極的な防衛策による龍造寺軍壊滅を目指し、沖田畷を防衛の要として龍造寺軍を待ち受けることにしました。このため、島津・有馬連合軍は森岳城に僅かな騎馬兵を本陣に置き、徹底的に沖田畷周辺の防備を固め、多くの伏兵を置き戦いに備えました。

竜造寺隆信は、有馬・島津連合軍の僅かな主力が森岳城に籠っていることを、森岳城を見下ろす山の上から遠望して自軍の勝利を確信し、3月24日未明、自軍を沖田畷に進軍させ、沖田畷を突破し森岳城を攻撃することにしました。

3月24日の辰の刻(午前8時頃)に戦闘が始まりましたが、有馬・島津連合軍は龍造寺軍をおびき寄せる計略を立てていたため応戦をせず、敗北を偽装して退却をしました。そして、有馬・島津連合軍は泥田・沼地の畷道に龍造寺軍を誘い込み、猛烈な銃撃により龍造寺軍の進撃を阻止し、龍造寺軍を深田に追い込み射殺していきました。

そして有馬・島津連合軍は龍造寺軍の混乱に乗じて、龍造寺軍本陣に猛攻撃をかけ、龍造寺隆信の首を取り、圧倒的に不利であった有馬・島津連合軍の勝利となりました。

以上のような戦いが沖田畷で行われたのですが、この沖田畷は千々石断層の東側の延長線上に有ります。ここは堆積物により隠れた断層があり、そこに水が集まり湿地帯が形成されたと考えられております。

沖田畷は地勢を利用した歴史的展開があった場所のひとつと言えると考えております。

(その8へ)

島原半島ジオパーク -その8- 最終章

吉田兼好(1283年?~1352年?)は、日本三大随筆の一つで、「徒然草」という随筆を残しています。

「徒然草」序文には「つれづれなるまゝに、日ぐらし硯に向かひて、心にうつりゆくよしなしごとをそこはかとなく書き付くれば、あやしうこそ物狂ほしけれ。」と書いています。

現代語に訳すと、「暇にまかせて、朝から晩まで硯(すずり)に向かって、心の中に思い浮かぶとりとめもないことを、あてもなく書きつけていると、熱中し過ぎて狂ったような気持ちになるものだ。」といった意味になるそうです。

現代では、スマホやテレビ等で時間潰しが出来るので、暇にまかせて一日中机に向かって文章を書くなど、プロの作家でもなければやりはしません。特に集中力の無い私には、とてもとても真似できるものではありません!絶対無理です!無理な仕事をしたので、休暇の話を女将にしなくては、ルン!ルルン!

「あの、私は、本日大変長い時間机の前に噛り付いてお仕事頑張りました。つきましては、懸案事項になっておりました休暇を頂きたいのですが、如何でしょうか?エッ!今日、女将が外出中に、私が長~い昼寝をしていたとの情報が入っていると!いやいや、それは誤解でごじゃりまする。アッ!そう言えば用事を思い出しましたので、ちょっと失礼いたします。休暇?そんなもの私には必要ありません。私、仕事大好きですから~。」という訳で、はじまり!はじまり!

(その7より)

1637年~1638年 島原の乱

島原の乱(しまばらのらん)は、日本の歴史上最大規模の一揆と言われています。また、幕末以前に起こった最後の本格的な内戦であるとも言われています。

この乱は1637年12月11日に勃発し、1638年4月12日に終結とされており、約4ヶ月の戦いであったと記録されています。

島原の乱のきっかけは、農民の生活が成り立たないほどの税の過酷な取り立てと、税を納めることが出来なかった人々への、過激な刑罰や拷問でした。また、乱が勃発した後に、一揆を起こした農民たちの結束力の源がキリスト教であったことが、大変特徴的であったと思います。

そして、島原の乱が鎮圧された1年半後にポルトガル人が日本から追放され、鎖国が始まり、戦国時代から島原の乱が終わるまで、領主の持ち物としてあつかわれていた領民が、人として扱われることとなり、民政が重視されるきっかけとなりました。

島原の乱の規模は諸説ありますが、幕府側の参加者は約125,800人、一揆側の参加者は約37,000人とされています。また、死傷者の数は幕府側が8,000人以上にのぼり、一揆側は全滅したと言われています。

(ジオパークの観点から 島原の乱と千々石断層と深江断層との関係)

地元の人達は島原半島を北と南を大きく分けて、北目(きため)・南目(みなんめ)と呼びます。詳しく調べると、島原の乱で一揆軍に参加した人々が住んでいた場所を南目(みなんめ)、それ以外の地域を北目(きため)といいます。そして、北目(きため)・南目(みなんめ)の境界を調べると、意外な事実が浮かび上がってきます。それが、千々石断層と深江断層です。

一揆軍の最初の目標は、島原半島全部の制圧と長崎までの制圧でした。しかし、一揆軍は千々石断層で、一揆軍への参加を拒んだ、愛野地区の領民に追い返され原城に撤退します。逆に、島原藩は深江地区で、一揆軍に負け、島原城に逃げ帰っています。深江地区での戦闘を詳しく調べていませんが、恐らく一揆軍は、深江断層を利用したものと考えています。

(ジオパークの観点から 原城址と地質)

島原半島の南目に住んでいた農民は、多くが一揆軍に加えられ、島原の乱で全滅しています。このため島原半島の南目は無人状態となり、これを解消するために、日本各地から移住が行われています。余談ですが、有家町には小豆島からソーメン作りの技術を持った人達が移住して来ています。そして、一時期は島原で作られたソーメンが、三輪ソーメンのブランド名で、日本中で多量に販売されていました。そして、千々石断層も深江断層も地勢が関係した、歴史的展開があった場所だといえます。

そして、島原の乱の折には、海に面してそそり立つ、断崖絶壁となった原城址を、一揆軍は堅固な要塞として利用し、イエズス会かポルトガルの救出を待ちながら籠城戦を展開したと思われます。また、原城址から発掘されたロザリオの重さが、当時の戦で利用された銃弾の重さと一致するとのことです。このことから、当時、原城址に打ち込まれ、石垣に張り付いていた軟鉄製の銃弾を剥がしてロザリオに加工し、祈りの道具として使われていたことが分かります。何ともやるせない気持ちになります。またここも、地勢が関係した、歴史的展開があった場所だといえます。

原城址の発掘調査で分かったことは、沢山の人骨が見つかり、その多くが脹脛付近の骨に傷があったということです。つまり、一揆軍参加者が逃げ惑う中、後ろから脹脛切って動けないようにしてから斬殺されたことになります。一揆軍の立て篭もった原城址のある、南有馬の地層は、島原半島を構成する地層の中では、比較的に古い地層群に属しているそうです。原城跡ではこの古い地層に、阿蘇山の噴火によって火砕流が発生し、海面を渡って降り積り、現在の小高い形に成ったそうです。

(島原の乱のその後 新しい世紀に向けて)

これは、マスコミに一切取り上げることの無かった話ですし、ジオパークとは必ずしも関係ありませんが、私の取材記録を、個人的な使命感で書き残しておきます。

以下の内容は、私が西暦2006年12月24日13:00~約2時間半、古巣神父様に直接インタビューをした内容を、要約したものであります。島原半島観光への新たな道を開く重要な内容であるため、私の力量では不十分とは思いましたが、あえてご報告申し上げます。また、以下の文章には、客観性を持たせるため、敬称は略させていただきましたことを、ご了承下さい。

西暦2000年7月22日(土)15:00~17:00にかけて、長崎県南島原市南有馬町にある史跡の原城本丸跡において、島原の乱の殉難者追悼記念ミサが、カトリック長崎大司教区島原教会の主宰で執り行われた。当時の実行代表責任者は、古巣神父であった。

島原の乱の殉難者追悼記念ミサが、行われることになったのは、新世紀の区切りとして、原城本丸跡で狂言と薪能を催行することが決り、出演者(野村萬歳等)から祟り(タタリ)が無いように、お祓いをして欲しいとの依頼が、古巣神父にあったことが発端となった。

キリスト教の教義では、全てを許し愛することから始まるため、祟りなどあるはずもない考えた古巣神父は、当初出演者からの申し出を断るつもりであった。

しかし、ローマ教皇パウロ2世が、キリスト教の大聖年でもあった西暦2000年に、キリスト教の歴史におけるユダヤ人への対応、十字軍のイスラム教徒への行為に対する反省や、ガリレオ・ガリレイの裁判における名誉回復などを公式に表明していたことが古巣神父の心に残っていたため、原城跡でのミサを、江戸時代における過激なキリスト教信者による、神社仏閣の破壊行為や殺人などの罪を認め謝罪するとともに、原城の戦いで亡くなった全ての人々の鎮魂と、仏教や神道の信仰を持つ人々との和解と、宗教者のあるべき姿を示し、未来へ向けての平和の祈りを込めたものとしたいとの提案をした。

古巣神父は、依頼者の了承を得たのち、半島にある神社仏閣を回り、神官方や僧侶方にミサの趣旨を説明し、ミサに参加してもらうようお願いすることにした。しかし、古巣神父は自分が提案をしたものの、他の宗教の指導者に参加してもらうのは、不可能ではないかとの思いがあった。

古巣神父の懇願に、島原半島の神主や僧侶方の中には、相容れぬことと叱責・非難をする人もあったが、宗派を超えて許しあい認め合うことの意義を深く理解する人もあり、積極的に協力をされた方もあった。また、半島だけでなく大村からも参加された僧侶の方もあった。

そしてついに2000年7月22日(土)殉教者の追悼ではなく、全ての島原の乱による殉難者追悼ミサが執り行われた。

古巣神父は語る。人間には自分が属しているグループ以外のものを、本能的に敵視し排除しようという心の働きがある。江戸時代には、キリスト教の信者の中に、他宗教を敵視し排除しようとする人達が、宗教の名の下に、非人間的な行動をとっている。心ある修道士は、このことを非公式の書簡の中でローマやインドの本部に書き送っている。ローマ教皇パウロ2世は、このような過ちを正式に謝罪した。また、未来に向けて宗教は対立するのではなく、人々の平和と幸せのために、世界になせることをすることが必要であると訴えた。

そしてミサの中で、参加した僧侶の一人と古巣神父とで、和解と誓いの言葉として以下の言葉が唱えられた。この言葉には、全ての宗教者を意識して、神という言葉は使用されていない。

私を平和のために働く者としてください

憎しみのあるところに愛を

分裂のあるところに道を

絶望のあるところに希望を

疑いのあるところに信仰を

悲しみのあるところによろこびを

もたらすものとしてください

理解されるよりは理解することを

なぐさめられるよりはなぐさめることを

愛されるよりは愛することを

求めますように

私たちは許すから許され

与えるから受け

全てをささげて

永遠の幸せをいただくことができるのです

殉難者追悼ミサの中で古瀬神父は、心の垣根を取り除くことで、いじめや戦争や争いが無くなると話をした。つまり、お互いが相手を理解する事が、多くの問題を解決していくことであり、不幸な出来事はそれを土台にして、改めることにより全ての人々の幸せにつながるのであると言い添えた。

最後に、私は過ちを認めたキリスト教の指導者と、それを許そうと集まってきた仏教や神道の指導者の人々の勇気と、人間としての偉大な善意に、敬意を払いますとともに、島原半島の今後の使命と観光とが結びつき、大きな平和の波となりますことを願いつつ、報告をおわります。[

(終わり)

なかよしはいい

タイトルを書いた時、頭の中に「なかよしこよし」という言葉が突然浮かびました。幼い頃母が歌って聞かせてくれていた童謡の歌詞であったことを思い出しました。

あれ?どんな歌詞だったかな?「なかよしこよしは どこのみち い~つもがっこへ みよちゃんと?」?????(これは違う!文章的に繋がらない!)

早速ノートパソコンで調べてみました。まず、「なかよしこよし」は漢字で書くと「仲良し小好し」となるそうで、意味は仲良しと同じだそうです。

さらに、私が覚えていた「なかよしこよしは どこのみち い~つもがっこへ みよちゃんと?」は、「仲良し小道」という動揺で、本当の歌詞は「仲よし小道は どこの道 いつも学校へ みよちゃんと」が正しかったのです。

それでは「仲良し小好し」は、どの童謡に出てくるのか?

有りました!「お馬の親子は 仲良し小好し・・・」だったのです。でも・・・・もう一つ重大な間違いがありました。タイトルを「お馬の親子」と思い込んでいたのですが、本当は「おうま」が正しいそうです。

“子供の頃に聞いた曲は、意味を考えずに適当に覚えていたことを大判明!”

以上の事から、私の適当な性格は幼い子供の頃から醸成されていたことが、はっきり分かりました。こりゃ60歳を超えても適当さが抜けないハズである!早速女将にこの大発見を御報告!

「女将!私がいつも女将に、適当に話を聞いると怒られる理由が分かりました!子供の頃からの性格だったんです!スッゴイ大発見でしょう!大興奮スッ!これを研究して論文にまとめれば、ノーベル賞が取れるかも!いいな~♪いいな~♪ノーベル賞♪」

「エッ?あなたは大馬鹿ですかと?そりゃ~自分でも馬鹿だとは思ってますが、面と向かって言われると、私の小さなプライドでも傷つくのですが・・・・。何々?自分のマヌケさを研究して世間に公表しようと考える大馬鹿は、世界中であなたくらいのものです?余りにも情けないので実家に帰らせてもらいます?」「ジョ、冗談ですってば!夫婦の会話を盛り上げようとして話してみただけです!オ、落ち着いて下さいませ!そう、そう、気を落ち着けてくださいm(_ _)m」・・・暫くの沈黙・・(気まずい!)・・・「そう言えば私、ブログを書いている途中だったので、事務所に戻ります。」という訳で大脱出~♪♪

(はじまり、はじまり)

雲仙は日本初の国立公園です。詳しくは国立公園法で指定された公園で、雲仙国立公園(現在は雲仙天草国立公園)として、1934年3月16日に、瀬戸内海国立公園、霧島国立公園(現在は霧島錦江湾国立公園)とともに日本最初の国立公園として指定された場所です。

この国立公園法は、1931年10月1日施行され、 1957年10月1日廃止され、現在は自然公園法により雲仙天草国立公園として指定されています。

余談ですが、世界最初の国立公園は、1872年にアメリカ大統領によって指定されたイエローストーン国立公園だそうです。日本に国立公園が誕生したのは1934年ですから、世界最初の国立公園誕生から62年後になります。

詳しい資料が手元になく、聞きかじりの知識で書いてしまいますが、当初、日本の国立公園として指定される要件は、海と山の景観を同時に見ることができる場所で、その景観を保護しながら、日本国民や外国の人々が公園として利用するにふさわしい場所とされたそうです。加えて、国立公園の場所の選定のため、外国人や日本国民が参加し、投票で決められたと聞いています。

雲仙国立公園は自然保護という側面を持ちながらも、外国人の避暑地として外貨の獲得を目指すモデル公園と位置づけられていたのではないかと思っています。これは、雲仙市を読めば成程と思っていただけますので、以下に明治~太平洋戦争前までの、外国人観光客に係る年表を記載しておきます。(雲仙観光協会の年表を参照)

1870年  アメリカ将校7人、通訳、コックボーイを連れて湯本旅館(現湯元ホテル)に逗留

1878年 新湯温泉開発。雲仙で綿羊飼育 。日本人浴槽の他に、洋人風呂と称する一人のみ入浴する箱風呂を作り、混浴を避けたところ外国人の滞在客が増える

1883年 純洋式の下田ホテルが新築される。緑屋ホテルが外国人向きに設備を改める。

1890年 外国誌、上海ノースチャイナデリーニュースに雲仙が紹介される。外国からの避暑客が増加する

1893年 新湯の亀の屋旅館(現新湯ホテル)が外国人専門ホテルとなる。

1895年 日清戦争後、ハルピン、ウラジオストックのロシア人避暑客が増加する

1899年 季節(夏季)電信取扱所が置かれる。6年後 二等郵便局となる

1905年 ドイツ、ベルツ博士登山、県当局に県営保養温泉公園設置を進言

1911年 我が国初の県営雲仙公園が開設・県雲仙公園事務所設置・小浜雲仙間の道路改良、完成。自動車が走る・雲仙、小浜に電灯が灯る

1913年 県営ゴルフ場開設・県営テニスコート開設

1916年 千々石雲仙間自動車道路が完成

1918年 ジャパンツーリストビューロー(JTB)の夏期温泉出張所が公園事務所内に開設される

1921年 第一回国際テニス大会開催

1922年 雲仙、小浜間に定期バスが走る。島原、雲仙間に自動車道路が完成

1923年 雲仙に街灯が点灯される

1924年 インドの詩人タゴール来仙

1927年 外国人客2万人をこえる・蒋介石来仙

1929年 別所に冷水プールができる

1930年 雲仙国際観光協会設立

1931年 雲仙乗馬協会結成

1933年 白雲の池キャンプ場開設

1934年 国立公園に指定される・温泉公園の名を正式に雲仙公園に変更・県営バスが長崎と雲仙の間に開通(県営バス発足)・国際観光産業博覧会の第2会場となる

いずれにしても、明治時代から外貨獲得のための公園整備が行われ、その後国立公園になったことがお分かりになると思います。日本では2006年に観光立国基本法が成立していますが、明治時代には日本の西の片隅の雲仙で、平和的異文化交流を目指す動きがあったことを忘れてはいけないと思っています。

さて、雲仙温泉は島原半島の中央部に位置しておりますが、島原半島は世界ジオパークネットワークに、2009年8月22日、洞爺湖有珠山(北海道)、糸魚川(新潟県)とともに日本最初の加盟が認定されました。

この世界ジオパークは、世界的に貴重な地質、地形、火山などの地質遺産を複数有する自然公園です。また、世界遺産の地質版とも言われています。

2004年にユネスコ(国際連合教育科学文化機関)の支援で設立された世界ジオパークネットワークが各地域を世界ジオパークとするのに相応しいか否かを審査・認定をしています。

認定されるためには、地質遺産の保護とともに、これを地域の教育や科学振興、観光事業に活用し、地域社会の活性化に務めていることが必要とされているそうです。

また、この認定は4年ごとに繰り返し実施され、再審査で認定の基準を満たしているか、活動度合いが十分かなどをチェックしているそうで、再審査で認定を取り消される地域も多いとの事です。

島原半島は現在3回の審査をクリアーしており、関係者の皆様のご検討は素晴らしいと思っていますし、これからも応援し続けたいと思っています。

話は変わりますが、文化庁から2018年5月4日に、日本が世界文化遺産に推薦していた「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」が、登録の妥当性を事前審査する、ユネスコ(国連教育科学文化機関)の諮問機関であるイコモス(国際記念物遺跡会議)が、「登録が適当」とユネスコに勧告したと発表されました。

この「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」には、原城址が含まれています。原城址は、禁教初期に島原と天草の潜伏キリシタンと農民が、島原・天草一揆のとき籠城戦を行った場所です。島原・天草一揆は、江戸幕府に大きな衝撃を与えて、2世紀を超える鎖国につながり、残された潜伏キリシタンの人々が、密かに自分たちだけで信仰を続けていくきっかけを作ったことが、今回の関連遺産に含まれている理由になったと思っています。

さて、前回のブログをお読みになった方は、「あれ?」と思われませんでしたか?そうです、実は「原城址」が世界ジオパークのジオスポットとして取り上げられているとともに、世界文化遺産としても取り上げられているのです。そこに、ユネスコの隠れた意図があると私は思っています。

辞書などで調べると、“ユネスコ(国際連合教育科学文化機関)は、諸国民の教育、科学、文化の協力と交流を通じて、国際平和と人類の福祉の促進を目的とした国際連合の専門機関”とされています。

ユネスコ憲章の前文を私なりに解釈すれば、お互いの人民の無知や無関心が差別や疑惑を生み、これを利用して人種主義・選民主義・差別主義・全体主義・排他主義・経済至上主義・国家主義が台頭し、第二次世界大戦が引き起こされたことを反省しています。また、単に国家と国家の契約や取り決めではなく、人類全体の共感と連帯のもとで、人間の尊厳や平等・相互の尊重という民主主義の諸原理を学ぶことを人民に保障されることが、ユネスコに参加する各国家の義務とされ、そのうえで相違する文化を学びあい交流を広げることで相互理解を深め、人民の心の中に平和のとりでを築かなければならないと考えられているようです。

以上のことから、島原半島で原城址が世界ジオパークと世界遺産にダブルで取り上げられているということは、為政者の失政や弾圧が人民を苦しめそれが戦いにつながったこと、宗教が戦いを正当化する道具にされてはならないこと、ミレニアムに殉難祭が行われ世界平和への祈りが宗教の枠組みを超えて執り行われたことを沢山の外国からのお客様との交流を通じて、世界中に発信して欲しいという、ユネスコの意図があるのではないかと私は密かに思っています。

今まで難しいことを書き並べてきましたが、私は観光業に係る者として、究極のところみんなが仲良であれば、平和が訪れると思います。まさに仲良しは良いですね。