湯元ホテルのお知らせ

宮崎康平先生ーその2-

本日は大変お天気が良く、暑すぎず寒すぎず、とても快適な日です。雲仙のツツジの芽も膨らみ始め、開花に向けての準備を始めました。(例年は5月の始め頃に開花します。)待ち遠しいです。

(その1より続く)

さて、もうひとつ宮崎先生は、何故私を「ソウシュンコザエモン」と呼ばれるのか、お尋ねしたことがございます。
先生は、私の名前が宗俊(むねとし)で、江戸時代の偉いお坊さんで、河内山宗俊(そうしゅん)という人と、 読み方は違うけれども、同じ名前であること。 湯元の代々の当主は名前の下に、小左衛門とつける慣習になっていることを、教えてくださいました。
そして、「そいけんか(だから)えろうならんばぞ(偉くなれよ)」と言われました。 私は宮崎先生が大好きでしたので、「ハイ」と元気よく返事をいたしました。
それから、高校を卒業するまで、「私の名前は、河内山宗俊と同じです。」と、 皆に胸を張って自己紹介しておりました。あるとき、自己紹介をしたあと、国語の先生が微妙な表情をされておられたので、何か変だぞと思い、後で調べてみますと、河内山宗俊は稀代の悪坊主ではありませんか!!!!
宮崎先生が生きておられたら、是非一言いいたいのですが、いくら私が悪戯ばかりしていたとはいえ、 ユーモアもほどほどにしてください、本当に赤面しました。
こんな楽しい宮崎先生が、湯元に来られるようになられたきっかけは、 先生が亡くなられた後に、母から聞きました。 きっかけを作りましたのは、父でございます。
父は、まったくと言っていいほど、商売に熱心ではない人でした。
囲碁と書道の有段者であり、おまけに釣りに尺八にゴルフと、他の家族が趣味を持たない中、 一人で趣味を引き受けておりました。
そのくせ、他人より目立つことが嫌いで、表彰などを受ける話があっても、すぐに辞退する人でした。
宮崎先生が失明以前に、事業家として活躍されていた頃、 父と先生は、余り親しくは無かったそうです。
(その3に続く)

宮崎康平先生ーその1-

今日から、私の大好きだった、宮崎康平先生のお話を投稿します。母が宮崎康平先生のエピソードや出来事を語っておりましたので、是非先生についての思い出を書いて下さいとお願いしていたのですが、書くことができなくなり、とても残念に思っておりました。そこで、私の心に残る、宮崎先生とのエピソードを書くことにしました。宜しければお読みください。

(その1はじめ)
宮崎康平先生は、島原の子守唄の作詞とまぼろしの邪馬台国の著作で有名になられた、 盲目の詩人です。
私が幼い頃、宮崎康平先生が、何度も湯元に遊びに来ておられたので、 親戚のおじさんぐらいに思っておりましたが、湯元との血縁関係はないそうです。
いつも明るく元気一杯の人で、私が居りますと笑顔一杯で、 「ソウシュンコザエモン、元気にしっとたね」と、声をかけて頂いておりました。
宮崎先生は、とても不思議な方で、目が見えないはずなのに、 私が、息をひそめて先生をワッといって驚かそうと、廊下の角に隠れておりますと、 逆にワッといって、驚かされたりしておりました。
余りにも不思議だったので、「先生、なして(何故)僕の居るとの分からすとですか?」と聞いてみました。
「オイ(俺)は、忍者の修行バしたけん、分かるとタイ」と先生は笑ってお答えになりました。 幼かった私は、先生の言葉をまともに信じて、ひょっとすると先生の白いステッキは、 仕込み杖になっているかもしれないなどと想像をし、 大人になったら、絶対に忍者の修行をしようと、心に誓いました。
後で考えて見ますと、先生は、島原鉄道再建のため大変なご苦労をなされ、過労のために失明されておられます。その頃絶望を耐え忍ぶ術を見につけられて、本当の忍者になられたのかもしれませんね。
(その2に続く)

雲仙岳 『山開き式』が開催されました。

天空の舞台に山の神降臨。

2018年4月8日日曜日
雲仙岳『山開き式』が、仁田峠で開催されました。
登山者の安全を祈願する山開きの神事が、普賢神社の前で厳かにおこなわれました。
今年も国立公園雲仙が、沢山の登山客で賑わいますように。

登山者の安全を祈願して

今年は、前日に雪が降ったので、平成新山の山肌に雪が残り、妙見岳の頂上では、霧氷も見る事が出来ました。

一寸休憩

このところ、大変真面目な投稿が続きましたので、私自身が息切れし、兎に角肩の凝らない話を書いてみたくなりました。
そこで、誠に勝手ながら、本日は過去の投稿をし直すのでなく、徒然なるままに書かせていただきます。
さて、雲仙で住む楽しみは、
①四季折々の箱庭のような景色が楽しめる
②手軽に温泉に入れる
③騒音が無い(耳を澄ませば小鳥の声が聞こえる)
④空気や水が美味しい
⑤長く住んでいると、農業をされているお知り合いの方から、旬の野菜のお裾分けを頂ける。
等々です。
都会のように、便利な暮らしが出来るわけではありませんが、自然の時間の流れに身を委ねることができます。
都会の慌ただしさや忙しさに、疲れた心身を癒したいと思われている方には、長期滞在がお勧めです。
話は変わりますが、まだ可憐な山桜が頑張って咲いています。見に来て下さい。

いきているお経ーその5-

今日ふと道端を見ると、タンポポの葉があちらこちらに見ることが出来ました。山の上はまだ肌寒いのですが、確実に春の訪れを感じられます。

(その4より続く)

仏教が全盛時代、文字の読めない人も多かったはずです。文字の読めない人達に、観念的な概念や真理を理解してもらうことは、 大変困難だったことでしょう。
雲仙の地獄谷は、文字を読めない人達に、欲望をもとめてやまない衝動的な感情に押し流され行動すれば、 どの様な苦しみに至のかを、目で見せて理解させる道具として使われていたと考えられます。地獄谷の仏教説話としての利用は、容易に検討がつきます。
しかし、怖がらせてばかりだけでは、人々は逃げ出してしまうばかりのはずです。ここまで来れば、地獄の対極として、極楽や浄土を見せる必要が、出てくるのではないかと思われます。そこで何か重大なことを、見逃していないか、私は考え続けておりました。 そのような折、ある日突然、私の頭の中に「満明寺の庭園」という、キーワードがひらめきました。
しかし、庭園に仏教の考えが活かされているという、歴史的事実が無ければ、満明寺の庭が浄土を現しているとの、 推定がきません。もののついでだと思い、庭園史を調べてみると、「飛鳥時代に、中国から伝わった仏教の世界観を表現した庭園が造られたという」 との表現を見つけることができました。
雲仙が修行の山であったという、特殊な事実を考えれば、浄土を表現する手段として、 満明寺の庭(=原生沼)が使われていたと、考える妥当性はあると思います。
長い道のりではありましたが、今では、父が言っていた「いきているお経」とは、迷いから悟りの世界を現すために使われた、 地獄谷や原生沼と、それを取り巻く、雲仙の自然そのものではなかったのかと、考えております。
最後になりましたが、地獄谷の名誉のために、一言付け加えさせていただきます。
地獄谷は、恐ろしいばかりの所ではなく、地獄谷があるからこそ生きて行ける、 ツクシテンツキと名づけられた珍しい植物があり、地獄谷の恵みを利用した燗付け(水→お湯)・源泉の利用などがあります。
善悪や勝ち負けで物事を判断する、平面的な考え方に陥るのではなく、物事を公平に多角的に見ることで、世界は広がります。 色々なことを許す、慈悲の心も生まれてくるのではないでしょうか。ひょっとすると、欲望をもとめてやまない衝動的な感情に押し流されず、 仏になろうとする心を、持ち続け努力する人こそ、父の言いたかった、いきているお経なのかもしれませんね。(終了)

いきているお経ーその4-

昨日は何十年かぶりに、4月に雪が降りました。本日は少し肌寒いですが、青空が広がっています。今日は日曜日なので、投稿を休もうと思いましたが、もう少しで”いきているお経”が終わるので、頑張ることにしました。
(その3より続く)
仏教は多岐の宗派に分かれており、その指導方法も様々に分かれております。 ただ、その宗派が、仏教であるか、それ以外の教えなのかを判定する基準があります。仏教であるか否かの基準は、三宝に帰依することを、教義としていることだそうです。帰依という言葉は、元々サンスクリット語の中国語訳で、優れたものに対して、自己の体や心を全て投げ出し、 疑いを持たずに信じるという意味があるそうです。
仏教の三宝は、三つの対象への信仰という意味に、解釈してよいと思います。三宝は仏・法・僧を意味します。一般的に、仏は仏陀を、法は真理または仏陀の説法を、僧は仏陀の教えを信じ仏陀の教えを広めるために、尽くす集団をいいます。
言い換えれば、悟りを開いた仏陀その人の実在性と行動を信じ、仏陀が示した真理を信じ、仏陀の教えを広めるために尽くす集団を信じ、 自己を捨ててこれらに尽くすことを教義としている教えを仏教といい、それ以外とを分ける基準ともなります。
さて、仏教の基本の教えは、通常三法印であると言われております。(四法印とするお経もあるそうです。)法印とは、仏教の根本的な考え方、またはものごとの解釈方法です。 三法印は、諸行無常 諸法無我 涅槃寂静 の言葉で表現されます。素人解釈ですが、以下、それぞれの言葉の意味を解釈してみます。
諸行無常とは、全ての事象や現象は常に変化するものであり、他の事象や現象とのかかわりが条件となって、 一時的に存在しているとの解釈になると思います。
また、諸法無我とは、全ての事象や現象は、他との事象や現象とのかかわりが条件となって存在しており、他の事象や現象と何のかかわりもなく 存在するものはない。また、他事象や現象とのかかわりを持たずに存在する自己(=我)さえもないとの解釈になります。
さらに、涅槃寂静とは、諸行無常・諸法無我の真理を理解・納得することで、欲望を求めてとまない衝動的な感情を捨て去り、苦しみを脱し 精神(こころ)の迷いがなくなった状態になろうという、仏教の目的であると解釈できます。
以上、仏教の基礎知識の解説はここまでとして、雲仙にいきたお経があるとの父の言葉を、どのように解釈すればよいのかが、 依然課題として残っております。
手掛かりとしては、いきているとのキーワードから、①現実に存在するものであること、 お経というキーワードから②雲仙が仏教の修行の地であったときに、すでに存在していたものであること、さらに、仏教との関わりからみて③仏教用語が使われているものを対象にして、考察すべきだと思いつきました。そして、雲仙に現存するもので三つの条件を満たす、一番大きな手掛かりは地獄谷であると思いました。
従って、ここからは仏教と地獄谷とのかかわりを考えてみます。(その5に続く)

いきているお経ーその3-

暖かい日が続いていましたが、本日は突然の雪が降り出しました。本日の気温は3度です。冬か!とツッコミたくなる寒さです。でも、山の春は既に訪れており、当館の庭では、椿とヤマザクラと大粒の雪が共演する、何とも言えない美しい光景が見られました。
余談はさておき、いきているお経の続き(-その3-)を投稿します。

今まで書いてまいりましたのは、歴史的な雲仙仏教の流れでした。ここからは、父の思い出につながる話を、書いてまいります。
ある日、今は亡き父が、「雲仙には、いきたお経のあるとバイ。」と私に話はじめました。
幼かった私は、「へー」と軽く聞いておりました。すると父は大変真面目な顔をして、「今は分からんかもしれんバッテン、大切なことジャッケン(大切なことだから)、覚えとかんね(覚えておきなさい)。」と言いました。
私は、意味は分かりませんでしたが、(当時は素直な子であったので?)とりあえず「ハイ」と返事をいたしました。父の言葉を、突然思い出しましたのは、10年ほど前に、ボランティアガイドをしていたときのことでした。そして、ガイドの勉強ついでに、ずっと気になっていた、父の言葉の謎に結論を出してみようと思いました。
但し、私の生家である湯元は、もともと真言宗を家の宗教としておりましたが、明治に至り政府の指導で、神道に宗旨替えをいたしました。(実は、江戸時代、島原の松平藩は譜代大名であり、明治政府から、賊軍と見なされかねない立場だったものですから、島原藩の家臣であった湯元は、明治政府からの迫害の危険を感じ、宗旨替えをいたしたとのことです。)また、宗旨替えをしたことで、湯元の人々は村八分になり、大変な苦労をしたとも、聞いております。
このような事情で、私は仏教に関する知識・経験が浅いので、仏教を修めた方々にとりましては、私の書くことは、噴飯ものかもしれませんが、足りない部分はお許しいただきたいと思います。また私は、未だに仏教のどの宗派にも属しておりませんし、特別な修行もしておりません、さらに仏教の考え方に共感してはおりますが、命を捨ててまで信仰を守り抜く信者でもありません。
雲仙の歴史を考えるための、基礎知識として仏教を取り扱っておりますことを、ご理解いただいたうえで、以下をお読み下さい。ーその4に続くー

いきているお経ーその2-

本日(平成30年4月5日(木)、雲仙は雨となりました。晴れの日が続いていたので、目を覚ましました時、周囲が暗くて、まだ夜かと持ってしまいました。昨日まで、山の緑の中に映えていた山桜が、散ってしまわないことを祈りつつ、昔書いておりました文章をアップいたします。
本日は、少し短めになります。

いきているお経ーその1ーより続く

雲仙が、仏教修行地になったのかについては、色々な説があるかもしれませんが、白い蛇が弥生時代からの、古い神を信じる勢力を暗示し、菩薩が仏教勢力を暗示していると仮定するならば、古い山の神(白い大蛇)を祀る勢力と仏教(菩薩)を信仰する勢力との間に、争い(菩薩に向かい)があり、最後に仏教勢力が、勝利を収めたと考えるのが、素直な解釈ではないでしょうか。
真偽のほどは分かりませんが、大宝元年(西暦701年)には、雲仙が開山されると記録されております。
大宝元年以降、雲仙の山岳仏教は盛んになり、高野山・比叡山と並ぶ、仏教の三大修行地と言われるようになりました。
最盛期には、瀬戸石原(現在の札ノ原)に三百坊・別所に七百坊合計一千坊もの僧坊を誇り、世の崇敬を集めていたと記録されております。(いきているお経ーその3-に続く)

いきているお経ーその1-

いきているお経も10年以上前に書いた文章なので結構硬い内容になっています。まあ、戯言と思って読んで頂ければとおもいます。
(本文)
本題に入る前に、なぜ雲仙が、仏教修行地になったのかということを、歴史を振り返りながら、素人なりに考えてみました。
雲仙の別所付近では、縄文時代前期(6000年ほど前)の住居跡や焚き火の跡、土器(10000年~8000年前)や黒曜石の鏃(やじり)などが発掘されています。雲仙に住んでいた、縄文時代の人達は、狩や木の実などの採取をすることで、生活をしていたとのです。また、縄文時代の人々は、山に精霊や魔物が住んでいると考えて、雲仙のお山に恐れと親しみを、持っていたと思います。
(余談ですが、もし私のように面倒くさがりの縄文人がいたら、火を焚く手間を省いて、地獄の湯気で色々な食べ物を、蒸して食べていたかもしれませんね。)
時代が移り、弥生時代になると、稲作が始まります。稲作は水が無ければ成り立ちません。山は水を生み出し、山から流れてくる水次第で、豊作や不作になると、弥生時代の人達は考えていました。ここに、豊作祈願をするための、信仰の対象として、雲仙の山岳信仰が始まったと、言えるのではないでしょうか。
また、弥生時代には、砂鉄を使った「たたら製鉄」も始まったと言われています。時代は異なりますが、雲仙の歴史の中にも、多比良町金山に護摩の長者が登場します。田代原入り口附近には、まだ長者屋敷跡が残っているそうで(まだ、見に行ったことがありません)、金屑山という鉄の屑を捨てた所があるそうです。
この事からも、仏教伝来以前に、砂鉄が豊富に産出する雲仙に、鉄を生産する特定の人々が、集まって住んでおり、同時に、この利権を守り見張りをする人々が、存在していた可能性があります。
また、この利権を守っていた人達は、守権者(しゅけんしゃ)と呼ばれていて、仏教伝来以降に、修験者(しゅげんしゃ)と呼ばれるようになったのではと、想像をしてみましたが、誰もそんなことを言う人はいないので、ただの妄想なのでしょう。
さて、温泉山縁起には、人皇第四十二代文武天皇の御代大宝元年四月十七日行基菩薩佛法弘通(仏法がひろく広まること)のため、高来山(雲仙)を卜(ぼく)して(亀の甲羅を焼いてそのひび割れで吉凶を占う)三十七日の満願の時、五更(午前三時半から五時)の空に十丈ばかりの大蛇が現れ菩薩に向かえば、たちまち変じて4面の美女となると記されております。
私は、昔から大蛇が何故現れ、菩薩に向かうのか、大変不思議に思っておりましたが、他の事に忙しくもあり、長年放りっぱなしにしておりました。しかし、ホームページに、どのようにして雲仙が、仏教修行地になったのか書き込むに当たり、もう一度この表現について、検討してみることにしました。(次回に続く)

山桜が咲きはじめました。

山笑う
おしどりの池の山桜

雲仙の山々にも、ようやく春の訪れが。
山桜の花が少しづつ咲きはじめました。

4月8日(日曜日)は、仁田峠展望所で、雲仙岳「山開き式」が開催されます。
普賢神社の宮司様による、登山者の安全祈願の神事が執り行われます。

その後、雲仙美しくする会や、地元の方々による、仁田峠及び妙見神社周辺の清掃作業も実施されます。